ウェアウルフになった人がいる。しかし、人を喰らう一方で、人としての生活を捨てきれない。この者は不純なのか。それとも何よりも純粋なのか。考えることをやめてはならない。考えるのをやめた時、獣性に身も心も蝕まれる。

ウェアウルフとは、人(ここでの「人(人間)」はエルフ種やカジート、アルゴニアンも含む)と狼が混ざったようなもので、普段は人間の姿だが、変身すると

全身毛むくじゃらの二本足の狼のような姿になり、素早く、強くなれる。

ここに、ウェアウルフになった人がいる。

この者がどのようにしてウェアウルフになったのか、どういう過去を持っているのかなどはとても些細なことでしかない。

もしかしたら、ドラゴンボーンと呼ばれスカイリムの英雄と呼ばれるようになるかもしれない。

しかし、ここではそのようなことはどうでもよいのである。

男である必要も女である必要もない。ただ、「人」がウェアウルフになった。

その事実だけでいい。

私は、ウェアウルフになった。私が何故ウェアウルフになったのかそれは思い出せない。

もはや、どうでもいい。

宿場の爛々とした光のもと、私は人間が作った物を食べ、酒をたしなむ。

人の肉はうまい。それは確かだ。

親から教わった道徳や倫理はウェアウルフになった時に捨て去った。捨て去らねば、私が壊れてしまっていただろう。

時に襲ってくる「人を狩って食べたい」という衝動はそれほど耐え難く、魅力的であった。

しかし、「狩り」を終えた後の罪悪感は酷いものだった。だから、私は捨てたのだ。

人であろうとする心を。

それからはとても楽になった。

狩りたいときに狩り、食べたいときに食べる。

私は「狩り」に特に感情をはさまない。なぜなら、私にとって人は当たり前の「獲物」でしかない。

ただ渇きを満たすための存在なのだ。

一番狩りやすいのは女子供。可哀相?弱いものから餌食になる、それが獣の世界だ。

人間だって狩りをするだろう?時には家畜と称して柵の中で育てた動物を無残に殺し、食べるだろう?それと何が違う?

しかし一方で、ウェアウルフ狩りのシルバーハンドとの闘争を楽しんでもいるのかもしれない。

いや、正直楽しい。

狩るか狩られるかの命がけの遊びはとてもスリリングでやみつきになる。

そこは、認めよう。

だが、私は今、暖かい宿場で暖かい食事、酒、あまつさえ部屋も取りベッドで眠る。

捨てたはずだ。人であろうとする心を。

なのに、なぜ人が作った物を食べ、人と会話しているのだろう。

私は人としても獣としても中途半端な存在なのか。不純なのだろうか。それとも、人としての理性を残しつつも狩りをする私は、ウェアウルフとしては純粋なのだろうか。

いや、そもそも純粋かどうかなどどうでもいいことなのかもしれない。

こうしてぐるぐると考えを巡らせること自体、無駄な行為なのかもしれない。

しかし考えることをやめてはいけない。考えるのをやめた時、私は自分の獣性に身も心も蝕まれるような気がするのだ。

そして、「あの衝動」がやってきた。途端に思考が切り替わる。

今夜はどいつを食べてやろうか。

宿屋を出て、私は目を光らせた。

この者が、ウェアウルフとしてどのような人生を送ってきたのか。

そして、ドラゴンボーンとして英雄になったのか。

貴方がもしこの者と出会ったなら聞いてみるのもいいかもしれない。

ウェアウルフと出会って、貴方が生きていたらの話だが。