初恋
団地妻のサイドストーリーです。 フランス時代の月の回想シーンです。
僕にはずっと消えなかった影がある
ふと隣を見ると、もういるはずの無いそれが見えたこともあった。
かつての日々、僕には隣に彼がいることが自然になってしまっていて、
最初はただそれが嬉しかった。
誰にも懐かない、心を許さない獣が僕だけに懐いてくれたようで、とても嬉しかった。
僕は彼の隣に立てる存在なのだと、彼が認めてくれたのが嬉しかった。誇らしかった。
気付かないように、気付いてしまわない様にと、目を逸らし続けた、あの関係の始まり。
僕は疑われる立場で、彼は疑う立場。それから僕は目を逸らした。
彼が見せてくれた虚像を真実だと思い込みたかった。
そんなどこにも地盤のない関係が長続きするはずが無く、ただの言葉であっさりと終わりを告げた。
僕が見ていた彼はどこにもいない、ただ彼が作り出した存在だと気付いた。
彼が興味を抱く存在ではなくなった僕は、もう彼と出会うことはないのだろう。
一緒に過ごしたあの期間はなんだったのだろう。
僕が今まで生きてきた時間に比べれば、ほんの僅かな時間。
それなのに、一瞬一瞬の密度が濃く、僕は簡単に息が出来た。
今でも鮮やかに思い出す事が出来る。
いつまでも幼児性が抜けない彼の癖。
風呂上りは面倒だからと裸のまま出てきては、僕に怒られていた。
犬みたいに頭を振って部屋中に水滴をばら撒くから、髪を仕方なく拭いていた。
針金のようだと思っていた髪の毛は思ったよりも指通りが滑らかで気持ちよかった。
食後のデザートで釣らないと、普通の食事を食べなくて。
一度だけ冗談で鷹の爪を食事に混ぜたら、翌日の夜まで拗ねて、食事をボイコットした。
仲直りはいつも苺のショートケーキだった。
関係が友人の範疇から出てしまった後。
笑うのとは少し違う、満足そうに目を細める顔。
いきなり何も脈略がない時にキスを仕掛けてきた。
いつもひんやりとした肌が、汗ばみ熱くなる時を知っていた。
背中の小さな黒子。青白い肌の下にある筋肉が動く様。
夜中に目が覚めると隣にあった寝顔。
眼を閉じた顔が新鮮で、いくら眺めても飽きなかった。
おかしいと思うかもしれないが、僕の中に彼を恨む感情は無い。
負け惜しみとか、未練とは違う。それは僕が抱く正直な感情だ。
許せないと、僕が女性だったなら思うかもしれない。
彼のやり方は肯定できるものではないけれど、
結果として僕は最も警戒しなくてはならない相手の監視を受け入れ、言葉を行動を信じ、僕自身をさらけ出した。
僕は簡単に彼に対する疑いを外し、彼を見誤った。それは、僕自身の未熟だ。
そこを付け入った彼の手腕は正当に評価できる。
日本ではない空を見上げた。僕はこんな所まで来た。
お前はどこにいる?
どこかで僕以外の相手を追っているのか?
誰かに笑いかけてるか?
僕を…思い出す事はあるか?
「ライト?どこだ?」
「ここです」
月明かりだけに照らされた部屋に、ジャンが顔を覗かせた。伸ばした彼の手を取った。
「食事が出来てる」
手にしていたグラスを飲み干した。少し感傷的になったのは、飲んでいたワインと今日があの日と同じ日付だから。
ジャンの傍に行くと、腕が腰に回った。隣から彼のコロンが漂った。
あぁ、僕は本当に愚かだ。
訝しげに覗いてくる彼を置いて、僕は笑っていた。かつての彼を思い出して。
あいつはいつも甘いお菓子の匂いがした。いつも食べているからすっかり匂いが染み付いて。
あんな事をされたと言うのに、こんなにもこんなにも、あいつの欠片が僕の中にある。
叫びだしたいほどの辛さも、時が経った今は自分の幼さを恥じるばかりで。
なぁ、お前は僕を思い出す事はあるか?
興味が失せた事件の容疑者。僕とお前の確かな繋がりは、ただそれだけ。
出逢って、一緒に過ごして、得たのは最初から最後までそれだけだったのだ。
あなたの隣でみた景色は
永遠に続きそうな夢でした
手を繋いでもらうのが嬉しくて いつも
空けた右手はあなたのもの
私はツバサを手に入れたみたいだった
何年経っても新しい恋をしても
あなたの優しさと
比べてしまうの
あなたの隣で見た景色は
永遠に続きそうな夢でした
長い指 大きな肩 背中に乗って
見た星空 想い出はきれいなままで
好きだけじゃうまくいかない
やるべきことが いつか
二人を遠ざけた 今ならわかる
答えを叫んでも 声は雑踏に紛れた
とりたての免許で迎えにきてくれた
笑顔が私には
眩しすぎたから
あなたの隣で見た景色が
永遠に続きそうで怖かった
馬鹿だな あなたを許せるまで
こんなにも こんなにも 時が流れた
今でもどこかで笑ってますか
たまには私を思い出しますか
立ち止まり 伸びた髪 失った時間
夜の空 見上げれば 星がこぼれた
馬鹿だな あなたを許せるまでに
こんなにも こんなにも 時が流れた
「初恋 by hitomi yaida」
