玉と鞭
ハリール王子の一件も無事におさまり、カバ丸とその祖父・伊賀野才蔵と兄弟子・霧野疾風がしばらく大久保家に滞在することになった。学園内がいつも程度の騒がしさに落ち着いたことを目白静根は心底ありがたく思った。今晩も寮の部屋でルームメイトの山川の鼾を聞きながらグッスリと眠っていた。しかし微かな気配を感じて目を開くと、月明かりに照らされた部屋の中に疾風の姿があった。驚いて起き上がると、疾風が苦笑した。
「さすがだな。いい感してるぜ。」と、山川を起こさないよう低く囁いた。
「な…何か、用でも?」と静根も静かに訊いた。
「あぁ。こないだ見損ねたあんたの可愛い寝顔を拝見しようと思ってな。
からかい気味にそう言う疾風にカァッと頬が赤くなるのを感じ、返答できずにいる静根に追い討ちをかけるべく、疾風は彼のベッドに近寄って薄ら笑いを浮かべた。
「可愛かったぜ、お譲ちゃん―じゃなかった、坊っちゃん!
明らかに挑発してきた彼に、静根は本能的に枕の下に潜めた鞭に手をやった。が、それはあるべき場所には無かった。
「これをお探しかぃ?」と、静根の愛用の鞭を疾風がどこからか取り出して見せた。
「いっ・いつの間に!」
「これを返して欲しかったら校庭の裏の雑木林に来い。待ってるぜ!」
そう言い残して疾風は忽然と姿を消した。一瞬途方にくれた静根であったが、小さく溜息をつくと起き上がり、バスローブを羽織った。
仕方ない。何か分けありのようだが、ここはひとつ乗せられてみよう。
多少胸騒ぎはしたが、寮を出て静根は疾風の指定した場所へとおもむいた。
「霧野くん。僕を呼び出したのには何かわけ理由があるのかね。」
「無論だ。」
答えるなり疾風は鞭を静根に投げ返した。パッと片手で受け止めながらも、静根の視線は疾風から離れなかった。
「以前あんたは俺の放ったパチンコ玉をひとつ残らずそいつで弾き返したろ?そのお手前をもう一度見せてもらおうと思ってな。」
言うなり彼の玉が強烈なスピードで静根に向かってきた。しかし幼い頃から慣れ親しんだ鞭を、彼は自分の手足のように器用に扱い、ひとつ残らず弾き飛ばした。
「今のはほんの小手調べだ。今度はどうだ!」と言うなり玉の数が増え、その速さもいっそう増した。
「えぇい、なんの!」と歯を食いしばり、静根も応戦した。
夜更けの林で二人の応酬は鞭の鳴る音と玉が木や石にぶつかる音だけになり、茂みの影に入っては草むらに出、玉が静根の体に命中するかと思いきや鞭で疾風に跳ね返された。
しばらく経つとようやく二人の動きが止まった。
「玉切れだ。」と疾風が苦笑して言った。
「もう…気は済んだか?」と訊いた静根は、かなり息を切らしていた。
「まぁ、お前があのカバ丸を牛耳っていたことには納得できたな。」
静根はそばにあった木に手を当て、体を支えた。
「なら、僕はもう、帰らせてもらおう。」
「それにゃまだ早いぜ。」
先ほどまでは数メートル離れていた疾風が、気付くとすぐ目の前まで接近していた。
「疲れたか?」と労わるように訊かれ、なおさら静根は面食らった。
「い・いや、それほどでも…」と平然を装って答えると、疾風が肩に手をかけた。
「無理すんな。少し休んでけよ。」
そう言いながら木に背を凭れるよう静根に促した。それに抵抗せず、必死で呼吸を整えようとする静根に、疾風は微笑みかけた。
「攫われたとき、麻衣を逃がそうとしてあの男ども相手に奮闘したのには驚いたが…中々どうして、骨があるじゃねぇか!優等生の生徒会長さんにしてはョ。
間近で疾風に見つめられ、鼓動がなぜか高まってゆくのに加えて驚くようなことを聞かされた静根は、よけい息苦しくなった。
「み・見ていたのか、あのとき?!」
「あぁ。麻衣を攫ったのは俺だったからな。事が済むまで様子を見ていたんだ。」
不意に静根の頭にその一連の事件の場面が走馬灯のように駆け巡った。そして自分が縄を解いてもらうためにとった行動は―ぶりっ子になりきり『お兄さん』から食事をねだることだった。先ほどまでの激しい運動で高潮した静根の頬は一気に深紅に染まった。
「もう、用が済んだのなら、僕は帰らせてもらう!」と、慌ててその場を立ち去ろうとした静根の体は、急に背後の木に押し付けられた。
「なっ・何を―」
問いただす間も無く、静根の口は塞がれた。疾風の、やわらかく温かな唇で。
「ム△~?!?!?!」
静根の頭の中は真っ白になった。だが執拗に接吻をされ、疾風の熱い舌先に唇を舐められているうち、次第に状況を把握した。
こ…こんなことをするために、わざわざ呼び出したのか…?!?
しかしそれ以外の理由も思い当たらなかったので、そう思わざるを得なかった。
ようやく疾風が口を開放したとき、静根は始めて自分が息を止めていたことに気付いた。溺れていたかのように彼が酸素を吸い込んでいる間、疾風はその顎から首筋にかけて唇を這わせていた。
「き・霧野…くん…」と、やっと声を出せたものの、その声は震えていた。
「何だ?」
疾風の声は平然そのもの、クールで落ち着いていた。
「な・何を…?!」
「バッキャろう。この期に及んで分かんねぇのか?」
「い・いや、ただ…」
ジタバタする静根を、疾風は力強く抱きしめた。
「可愛いぜ、静根。」
その言葉に、静根は凍りついたかのように動きを止めた。そして再び唇に口付けをされても、微動だにしなかった。そんな無防備な相手を、疾風なら思うがままにできたのだが、あえて彼は接吻だけにとどめ、静根の放心状態が治るのを待った。
「静根…お前は、誰も名前では呼ばないんだな。カバ丸のことでさえ、お前はいつも『伊賀野』って言ってる。そんなにお前は、ひと他人を近付けたくないのか?」
「エッ?」と驚いて静根は目を見開いた。
「俺はな、お前にとって『霧野』じゃなくて『疾風』になりてぇんだ。分かるか?だからお前のことも『目白』じゃなくて『静根』って呼ぶからな。そこんとこ、覚悟しとけ!」
答えようと開かれた静根の唇からは、音が出なかった。疾風はそのスキにまた口を合わせ、舌で静根の口腔を探った。静根の両手が条件反射で彼を押し放そうとすると、その細い手首をつかみ、歯と歯が当たるほどしつこく、深く口付けをした。
「ン・ン~!」と苦しそうにあげられた静根の声にハッとして疾風が顔を離すと、静根の目元に涙がにじんでいた。
「すまねぇ。苦しかったか?」
ゼェゼェと息をしながら静根は顔を背けたので、彼の長い黒髪が頬にかかって白い肌に映えた。
「悪かった。つい、お前があんまり綺麗だから…」
途絶えた言葉の先を綴るように、疾風の指が静根の髪に絡んだ。放された静根の手は自然に疾風の胸に当てられたが、もはや拒絶する仕草ではなかった。
「お前、あの高田って奴には興味ねぇんだろ?」と、まだ無言の静根に疾風は話しかけた。「いつもお前の周りに付きまとってる、ノグソじゃねぇ、野々草って女―あいつにも興味はねぇんだろ?だったら、俺と付き合えよ。」
強引に言い切った疾風に、静根は何も答えず、向き直ろうともしなかった。
「悪いようにゃしないぜ。」と優しく囁き、疾風はもう一度静根を抱きしめた。そして答えを待った。
数分後、静根は蚊細い声でやっと答えた。
「か…考えて、おこう…。」
一瞬、ひときわ強く抱きしめると、疾風は溜息をついた。
「分かった。今は、それで我慢しよう。」
少し背中を愛撫するようにさすってから、疾風はまだ硬直状態の静根を名残惜しそうに放し、背中を向けてかがんだ。
「乗れよ。負ぶってってやるから。」
えっ?
たじろいだが、静根はオズオズとその背中に身を寄せた。そして脚を持たれて抱えあげられると、疾風の首に回した腕に力をこめ、落ちないようにしっかりと抱き付いた。その素直な反応が嬉しくて、背中に感じる彼の体の凹凸が悩ましくて、疾風はアッと言う間に静根の部屋まで戻って行った。
ベッドに背を向け、そのまま静根を布団の上に座らせると、やはりまだボーっとしているので、疾風は彼のバスローブを脱がせて毛布の下に寝かせた。
「おやすみ。」とひとこと言い残して、静根の額に口付けをすると、疾風は部屋を去った。しかし長い間、静根は眠れずに、唐突に起きた夢のような出来事を何度も頭の中で繰り返していた。
著者より: 読者の皆々様、続けるべきでしょうか? どうかご一報を!
