Episode 1 The Sunday

Rating : T (There are some mentions for sexual activities)

Spoilers : S3#22(傷だらけのCSI/Play with Fire), S4#12(蝶の亡霊/Butterflied)

AN :「例の日曜日」です。S8#2 を見ていれば、もうそれだけで何が起こるかは分かるかと思いますが (そもそも Rating がネタバレしてます)。 でも一筋縄ではいかないのが二人ですから。時期としては S5#21(禁断の味) の後です。Chapter1 はサラ視点、Chapter2 はグリッソム視点で、同じイベント描写になります。
THE FIRST DATE! How did it go? Did they have made it? Time set after S5#21(Committed). Chapter 1 is Sara's POV, and Chapter 2 will be Grissom's POV.


Chapter 1 : side:S

「今度、一緒に食事に行かないか?」

彼の言葉に、私は耳を疑った。
一瞬彼の意図が理解が出来なくて、目を丸くしたまま、ただ彼を見ていた。

少し微笑んでいた彼は、しばらく私を見ていたが、やがて眉をひそめた。

「・・・あー、もし、」

何かを言いよどんで、彼は視線を泳がせた。

私は一生懸命考えた。
彼は今、「食事に行こう」と言ったのか?
私を、食事に誘ったのか?
それがどういう意味か、分かっていて?
どれだけ私が誘っても、断り続けていた、彼が?

頭はうまく回らなかった。
夢にまで見た、彼からの誘い。
これを、どうとらえていいのだろう?
ただの、上司からの面談的なお誘い?それとも、意図のある、お誘い?
彼に食事に誘われて、私が何かを期待しないわけがないと、彼が知らないはずがない。
だが、彼はずっと、私を拒んできたのに?

困惑して言葉が出ないでいると、彼は眼鏡を外し、それを手でもてあそびながら、至極言いづらそうに、言った。

「その、もし、手遅れで、ないのなら」

ハッとした。
手遅れ。
その言葉に、その瞬間がよみがえった。
私が彼に言った言葉だ。「考えすぎてばかりいたら、手遅れになるかも」と。
彼の好意を感じることが何度かあった。信じられなかったが、信じたかった。だが彼は煮え切らずそれ以上の行動に出なかった。だから思い切って私から誘った。
そして玉砕した。その時に思わず投げつけた言葉だ。
その後も何度も、彼にはさりげなく拒絶され続けた。
彼にその気は無い、望みは無いと、間接的にだが知ってしまった。
諦めなければ、と葛藤し続けて何年になるだろう。それにさえ、疲れてしまった。
最近ではもう、諦めることも、諦めていた。

だから、今聞いた言葉は、間違いなく私を食事に、そのつもりで誘っているのだと分かっても、にわかには信じがたかった。
ただの食事かもしれない。しかし「手遅れでないなら」と、あのときのキーワードを使った以上、そのつもりだと思うことは、そんなに傲慢だろうか?

私が返事に困っていると、彼の顔にも困惑が広がった。

「あー、もしかして、手遅れなら・・・」
「ええ」

思わず彼を遮った。

「したい。食事、したい」

今度は彼が固まった。外した眼鏡を右手で軽くあげたまま、静止している。

「じゃ、いい?」

その眼鏡を軽く揺らして、彼は少し首をかしげた。彼の癖だ。

「ええ」

鼓動が早くなる。笑おうとしたが、ぎごちなくなった。彼はほっとしたように笑った。それも少しぎごちなかったように感じた。

「次の非番は、いつだ?」

私はシフト表を懸命に頭に思い描いた。

「ええと、明後日」
「日曜日か。完璧だ」

彼が笑う。
何が完璧なんだろう。

「じゃ、その日で、いい?」
「ええ」

予定なんか後から合わせる。どうせオフに予定があったことなどほとんど無いから大丈夫だ。

「店の希望はあるか?」
「いえ・・・あの、お任せする」

突然聞かれても、行きたいレストランなんかすぐに答えられるわけがない。

「じゃ、決めたら、連絡する」

電話で?メールで?
聞きたいのに、言葉が、うまく出てこない。

「え、ええ」
「ベジタリアンの店を探さないとな」

彼は楽しそうに言った。
私は笑おうとしたが、やはりうまく笑えなかった。それでも嬉しくて、口元がほころぶのは止められなかった。

「じゃあ、明後日」
「ええ、明後日ね」
にこりと笑って、彼は去って行った。心なしかその足取りがスキップでもするように軽く思えたが、気のせいだろう。

スキップでもしたい気分なのは私の方だ。
車に乗るまでも、運転中も、家に着いてからも、頭がぼーっとして、体がふわふわして、顔が自然ににやけた。良く無事に家に帰れたものだ。
しかし家について一息つくと、急に不安になってきた。
本当に、期待していいのだろうか?
彼は、本当に「そういう意味」で誘ったのだろうか?
どこか浮き世離れした彼のことだ、男女の機微にも長けているとは思えない。
あまり期待しすぎるのは良くないかもしれない。
私は冷静になろうと深呼吸を繰り返した。
それでも。
彼の今日の言葉と、表情を一つ一つ思い返して、期待できる要素を探し出しては、にやけてクッションを抱き締めるのを、やめることが出来なかった。

翌日は、一転して、不安しか無かった。
仕事中、彼の様子をうかがったが、いつも通りにしか見えなかった。
あれは夢だったのだろうか?もしかして、私は、彼に恋い焦がれるあまり、とうとう幻想でも見たのだろうか?
明日、意気揚々と食事に出かけ、彼が来なかったら、どうしよう?
不安は不安を呼び、落ち着かない一日を過ごした。

更に翌日。
彼から何の連絡も無く、不安はピークに達していた。やはりあれは私の妄想だったのだろうか。
彼に呼び出されオフィスに行ったときも、どうせ仕事の指示だろうとは思ったが、その通りだったので少し落胆しかけた。
だが、彼の差し出すファイルを受け取ろうとした瞬間、彼がそれをすっと引き上げたのだ。
驚いて彼を見た。彼は一瞬辺りに視線を走らせて、
「今日、大丈夫?」
と尋ねてきた。
それで、やっとあれが夢や幻ではなく現実だったと確信できた。
「え、ええ」
慌てて答えたから、声が変な風に裏返った。
恥ずかしくて、その場にいられず、彼からファイルを奪い取るようにしてもらうと、部屋を大股で出ていった。

その日、私は仕事を何倍にもテキパキとこなした。
絶対に残業なんかするもんか。今日だけは、絶対に定時で上がってみせる。不退転の決意だ。
鬼気迫る勢いで仕事を片付けた。
ふざけているホッジスとグレッグを叱り、ミアをせかしたり(彼女がその後やめてしまったのは、まさかこのせいではあるまい)、ウォリックとニックに「なんか怒ってる?」と茶化されたりしながら、とにかく仕事に邁進した。
一日の段取りも、定時間近に中途半端に検査結果が出ないよう、ちゃんと計算してオーダーした。
あとは事件が起こりすぎないように祈るだけだった。
刑事達から電話が来るたびに、冷や冷やした。エクリーからの呼び出しは腹が立った。が一応穏便に笑顔で済ませた。報告書の細かい記載漏れをネチネチ文句言われただけだった。しかも証拠にはたいして関係無い箇所のだ。今日という日じゃなかったら、また彼に暴言を吐くところだったかもしれない。

そんなわけで、定時までに仕事を完璧に終わらせ、ジャストに私はロッカールームへ小走りで向かった。
「あ、サラ、ちょっといい?」
グレッグが声をかけてきたが、
「今日はダメ、もう帰るの」
放置してロッカールームへ急いだ。
「え、もう?」
「そう」
「なんか予定でもあるの?」
「・・・とにかく帰るから」
ロッカールームにいた遅番のはずのウォリックが、
「そんなに急いで帰るなんて、デートか?」
と茶化してきたので、睨み付けておいた。

自宅に戻り、急いでシャワーを浴び、着替えようとして、はたと気づいた。
まだ、お店を聞いていない。
どうしよう、何を着ればいいのか決められない。
携帯電話を見てみるが、彼から着信やメールがあった痕跡はない。
いくつか候補の服をベッドに広げ、カジュアルならこれ、あの店ならこれくらいかな、などとあれこれ悩んだ。
そうこうしてても仕方ないので、ひとまず、バスローブのまま、メイクを始める。しかしメイクだって、服に合わせなきゃいけないのに。
そんなとき、やっと携帯電話が鳴った。飛びつくようにして電話に出た。
「サイドル」
「グリッソムだ」
「ああ、ええ、あの、もうすぐ、出るわ」
「どこへ?」
彼の笑った声がした。
「え?」
「まだ、店を伝えてなかったと思うが」
「・・・・・・ええ、そうね」
「パレルモの西にできたモールに、ベジタリアン向けのレストランがあるそうだ。SIGHサイという名前だ。分かるかな?」
「ネットで見たことある」
「そこに1時間後くらいでどうかな?」
「分かった。1時間後ね」
「じゃ。待ってる」
電話は短く切れた。
彼の声が弾んでいるように聞こえたのは、私の心が弾んでいるからだろう。
慌ててネットで店の住所を確認する。どうしよう、「ちゃんとした」店だ。カジュアル過ぎてはいけない気がする。
いつもよりほんの少しドレスアップして、タクシーを呼び、その店へ向かった。

彼を待つ間は、とても心細かった。
何度も電話の着信履歴を確認して、あの電話が自分の妄想でないことを確認した。
5分、10分と待つうちに、何かあったのだろうかと、不安になる。
仕事が抜けられなかったのだろうか?ああ、それは最悪のパターンだ。
この仕事上、避けられないことではあるけれど、シフト以外の時間でも、人手が足りないと容赦なく呼び出される。自分は今日は、完全な非番でバックアップでもないから、その可能性はかなり低いが、彼はただのシフト明け、しかも主任、難しい事件があれば駆り出されてしまう。
だが、それなら電話連絡くらいあって良さそうだ。
まさか、店を間違えた?店名を聞き間違えただろうか?
不安が限界になって、彼に電話をかけることをやっと思いついた。
携帯を開いたとき、
「サラ」
彼の声がした。
顔を上げると、彼が向こうからやってくるところだった。
ほっと安堵し、胸元で小さく手を振った。
近づいてきた彼が、
「やあ。遅くなってすまない」
にこりと笑う。
私の大好きな、彼の笑顔。ブルーグリーンの瞳が私を見ている。胸が高鳴り、返事がうまく返せなかった。
だがすぐに、別の不安がこみ上げた。彼が少し離れたところで足を止め、私をまじまじと見つめたからだ。
「・・・私、気合い、入れすぎた??」
訊きながら、自分の姿を見下ろした。
最小限のドレスアップにしたつもりだったが、やりすぎただろうか?最近デートらしいデートから遠ざかっていたから、加減が分からなくなっていた。
彼ははにかむように微笑んだ。
「いや、綺麗だ」
そう言って、彼が腕を差し出すので、私は躊躇いながら、その腕を取った。
私たちは、ぎごちなく、腕を組んで店へ入った。

食事は楽しかった。
いや、訂正する。彼との会話は楽しかった。
料理の味は、正直よく覚えていない。記憶に残らないくらいだから、まずくはなかったはずだ。だが記憶に残るほど絶品に美味しかったわけでもなかったようだ。仕方ない、ここはベガス。食の都ではない。
それに私も美食家ではない。不味くなければたいていのものはおいしく食べられるお得な舌の持ち主だ。
彼はどうかは分からないが、ワインは気に入ったようだった。
確かに料理には合っていた。
彼がソムリエとワインのうんちくを楽しそうに語るのを、微笑ましく見た。
その日彼はよく喋った。いや、もともと彼はお喋りだ。私は知っている。
彼の知的好奇心を刺激する質問、相づちを的確に打つと、彼は喜んで話をしてくれる。
私にはそれが楽しくてたまらなかった。
会話の内容は、思い起こせば、周囲の人にはさぞ気味が悪かったろう。
昆虫の話、薬品の話、実験の話。死体の話こそ避けたが、それに類する話題はあった。
話題はさらに多岐に渡った。芸術、小説、オペラ、歴史。最近の芸能にはさっぱりだが、それらは分かる。
あちこちに飛び移る話題を、私たちは楽しく追いかけた。会話は尽きることがないように思えた。
やがてデザートが終わり、食後のコーヒーが出て来たところで、突然、その会話が途切れた。
一度沈黙になってしまうと、緊張が一気に押し寄せて、もう口を開くことが出来なくなった。
ただ、薄いコーヒーを何度も口に運んだ。
彼も黙ってしまった。
時々、彼の視線を感じたが、私は顔を上げられなかった。
食事が終わる。終わってしまう。終わったら、どうなる?
ワインの酔いもあってか、動悸がしていた。頭もクラクラしてきた。
カップを傾けたら、もうコーヒーがなかった。困った。間が持たない。
ちらりと見ると、彼のコーヒーももう空だった。
彼もその空のカップを両手で弄んでいた。
「何かお持ちしましょうか?」
ウェイターが話しかけてこなかったら、そのまま沈黙が永遠に続いたかもしれない。
彼がホッとしたように息を吐いたのが分かった。
「いや、もう結構。これで、お会計を」
彼が財布からカードを取り出すのを、私はボーッと見ていた。
奢ってもらったお礼を言うことさえ、忘れていた。
支払いを終えて、彼がカードをしまう。
それでまた、沈黙が訪れた。
先に身じろぎしたのは、彼だった。
両手をテーブルの上で組んで、彼は私を呼んだ。
「サラ」
優しい声だった。顔を上げたものの、私は彼の顔を直視出来なくて、すぐに反らしてしまった。
動悸が更に速まった。
「今日は、楽しかった」
「えぇ、・・・私も」
「ほんと?」
「えぇ、楽しかった」
「それは良かった」
彼の声は冷静なように思えた。
それで、ああ、今日はこれで終わりなのだと、なぜか思った。
もちろん、それでもいいのだ。ただ、この食事が何を意味するのか、曖昧なまま終わるのは嫌だった。はっきりさせたかった。これが、デートなのか、そうでないのか。
しかし、何も言い出せなかった。デートなんかじゃない、何を勘違いしたのかと、彼に呆れられるのが怖かった。
また少し沈黙が下りた。
「それじゃあ、そろそろ・・・」
行こうか?と言う彼に促されて、立ち上がった。
酔いのせいか動悸のせいか、頭が余計クラクラした。
レストランを出る際、彼が一瞬、私の腰に手を回したような気がしたが、すぐに離れたので、当たっただけだろう。緊張して損した。
彼について歩くと、店の外に待機しているタクシーの列に向かうようだった。
ああ、タクシーに乗せられて、今日は帰されて、終わりなんだな、とその時はなぜかむしろ安堵した。さっきまで、これがデートなのかどうなのか、ハッキリさせたいと思っていたのに。
今は、ただ、この楽しい時間が終わってしまうのが、寂しかった。
彼も私も、無言だった。
タクシーの順番がやってきて、彼が扉を開ける。そして私の体をタクシーの中へ促した。
私は素直に従った。
彼におやすみを言おうとして、見上げようとしたとき、彼が横に乗り込んできた。
驚きながら、彼に押されるまま、隣に移動する。
「行き先は?」
運転手が尋ねる。彼が私に住所を言うよう、ジェスチャーした。
戸惑いながら、住所を告げたが、声がかすれた。
案の定、運転手に聞こえなかったようで、彼が復唱して伝え、タクシーは走り出した。

では、彼は、私の部屋に、来るつもりなのだろうか?
動悸がますます速くなった。
いやいや、期待しすぎてはいけない。私を部屋まで送り届けて、そのままこのタクシーで帰宅するつもりかもしれない。私は非番だが、彼は今日もシフトなはず。そう、そうに違いない。
一緒に食事が出来た、それだけで、私は泣きたいくらい幸せだった。
もう、今日は十分だ。
深呼吸をして、私は気持ちを落ち着けた。
下りるとき、彼にお休みを言わなければ。そうだ、さっき奢ってもらったお礼も言わなければ。
そう考えていたとき、右手に何かを感じた。
彼が私の手に、そっと左手を重ねたのだった。
息が止まるかと思った。
私は自分の手を見つめたが、彼の顔を見ることが出来なかった。
彼の指が、ゆっくりと私の手を撫でた。
静まりかけていた鼓動が再び高鳴り、今や全身が心臓になったかのようだった。
頭に血が上るのが分かった。
彼は、何も言わない。
思い切ってちらりと見ると、彼も私を見てはいなかった。窓の外を眺めていた。
ほっとしかけたとき、彼がこちらを向いた。
慌ててうつむいた。顔を見られたくなかった。
きっと耳まで真っ赤だ。
彼の指が、私の指をそっと握ってきた。
呼吸が乱れる。息が苦しい。アパートに着く前に呼吸困難になりそうだ。
今日はこのまま、終わらないのかもしれない。そう期待しても、いいのだろうか?
もちろん、そうしたかった。
私はほんの少し、指を動かし、そして彼の指に絡めた。
これで、伝わっただろうか?

イエス、だと。

タクシーが街を走る。私たちは無言だった。
私のアパートまでは15分ほど。その間、私はずっと、どうやったら自然に彼を部屋に誘えるか、そればかり考えていた。
彼がタクシーから離れなかったら、お休みを言うだけで済む。しかし、指先から伝わる彼の体温が、そうはならないと伝えてきていた。
もういっそのこと、彼を部屋に引っ張り込んでキスしてしまおうか。
いや、そんな大胆なこと、絶対無理だ。
彼の気持ちを、ちゃんと確認したい。それからでなければ、どんな行動も起こせない。
それに、万一、万一、彼にその気がなかったら、悲惨なことになる。
長い間、彼に拒絶され続けてきた。そのせいで、どうしても不安がくすぶっていた。単純に彼の行動を信じることが出来なかった。
だから、部屋に誘うのも、失敗すれば彼を落胆させるのではないか、彼に何を期待したのかと失笑されるのではないかと、怖かった。
ぐるぐると考え続けていて、私は雨が降り始めていることに気づいていなかった。

タクシーが止まる。財布を出そうとして、彼に止められた。彼が支払い、タクシーを先に降りて、私を下ろした。
雨が当たって、私は驚いて上空を見上げた。
その視界を、何かが遮った。
彼が上着をかざしたのだ。
「濡れるぞ」
彼に促され、二人で彼の上着をかぶりながら、部屋まで走った。
タクシーは行ってしまった。

自分の部屋の扉を開け、彼に上着の礼を言い、半歩玄関に入ったところで、私は静止した。

そう、彼はタクシーを降り、そして、タクシーは、行ってしまった。
どうあっても、私は、彼をこのまま帰すわけには、いかない。

何か、言わなければ。

「あの、今日は、その、ありがとう、楽しかった」
彼はにこりと笑った。
「ああ、私も楽しかった」
私も笑ったが、視線を合わせていられなくて、すぐにそらした。

「こんなに楽しいデートは久しぶりだ」
明るい声で、彼が言った。

デート。
デート。
・・・デート。

彼は今、デートと言った?ほんとに?

ほんとに?

もちろん、これはデートだった。デートだったんだ。

私は必死で考え、やっとの思いで、彼に言った。

「何か・・・飲んでく?」

陳腐すぎて情けなかった。が、それしか思いつかなかった。
彼は微笑みながら頷きかけ、それから少し、いたずらっぽく首をかしげた。
「何がある?」
私は必死でキッチンを思い浮かべた。
「日本のお茶が、ある」
「緑茶か?」
「ちょっと、珍しいお茶」
「へえ、それは是非飲んでみたいな」

よかった。彼の興味を引けた。
私は彼を部屋へ招き入れた。

彼がこの部屋へ来るのは別に初めてではない。
なので彼は慣れた様子で、ソファへ座った。
キッチンでお茶を用意する私を、そこからにこにこと見ていた。時々、視線をキョロキョロさせていたが、なんだろう。

お湯を沸かし、ポットにお茶の葉を入れる。
念のため、もう一度お茶のパッケージに書いてある「おいしい入れ方」を確認する。
沸いたお湯をいったん別のポットに入れ、それから茶葉を入れたポットにゆっくり注ぐ。
ふわりと、柔らかく甘い香りが漂った。
「ほぅ、いい香りだ」
いつの間にか、彼がそばに来ていた。鼻を近づけ、ポットから漂う香りを嗅いでいる。
「なんか、癒やされるのよね、この香り」
ネット通販にはまっていた頃に見つけて買ったものだった。
「なんていうお茶だ?」
眼鏡をかけなおし、お茶のパッケージを確認する彼に、少し笑った。
「ゲンマイ茶っていうらしいわ」
甘すぎず、わずかな香ばしさが、気に入っていた。
ティーカップとポットをソファへ運ぶ。少し迷ったが、彼の隣に座った。それだけでもものすごい勇気が必要だった。
お茶をカップに注ぐと、僅かに黄色がかった緑色のその液体を、彼は熱心に見つめた。鼻を近づけ、匂いを確認している。
「確かに、これは癒やしの香りだな」
それから、やっと口をつけた。
このお茶は飲んでもかすかに甘い。疲れてゆっくりしたいとき、私はこのお茶を飲むことがある。
リラクゼーション効果のあるハーブティーはいくつかあるが、私はこのお茶の香りが気に入っていた。
彼が気に入ったかはわからない。
味を少し分析したあとで、彼は日本茶についてのうんちくを話し始めた。
私もそれを楽しく聞いた。
彼のお茶談義を聞きながら、私がカップをくゆらせていたとき、ふと、彼の言葉が途切れた。
「サラ」
名を呼ばれ、彼を見た。
彼の指が、私の頬に触れた。
私は息を飲み、そして思わず目を閉じた。
胸の奥底から、歓喜の震えがわき上がってきた。彼が何をしようとしているか、もちろん、分かった。
唇が震え、呼吸が乱れた。
息を殺しながら、ゆっくり目を開けると、彼の指が顎にかかった。
彼の顔が近づいてくる。
私は再びまぶたを閉じた。

ああ、ついに。
夢にまで見た、この瞬間が。
ついに訪れる。

だが、唇に、期待した瞬間は、なかなか訪れなかった。
互いの呼吸を感じる距離で、彼が動きを止めた。

目を開けると、彼は固まっていた。目を閉じ、こめかみを押さえ、軽く頭を振って、それから体を元に戻した。

「は?」

私は混乱した。

「なに?」

今のは、何だ?
いくらなんでも、ひどい。ひどすぎる。

「ああ、・・・すまない」

何を謝っているのだ、彼は?

「どういうこと?」

キスを期待し、裏切られたショックは大きかった。
私はさすがに顔をしかめた。腹が立ってきた。

いい加減、もう我慢ならない。
彼はこれまでも思わせぶりなことを繰り返してきた。その度にその気になって、アピールして、振られ続けてきた。その気になったのは私の勝手かもしれないが、そのたびに傷ついて、泣き明かした。
いくらなんでも、これは、許せない。

「違うんだ、サラ」

何が、どう、何と、違うと言うのだ。

「あなたに拒絶されるたび、傷ついたわ」

思わず非難がましく声を荒げた。彼が私を見る。その表情が何を意味しているか計りかねた。

「ソフィアと食事に行ったと知って、・・・泣いたわ」
「ソフィア?」

聞き返した彼は、少し驚いた顔だった。

「誰から聞いたんだ」
「誰だっていいじゃない」

本当は、二人を見かけて、よせばいいのに、後をつけた。だがそんなこと言わない。言えるわけがない。
あの日、車を泣きながら運転して帰った。
夢のような1週間の直後だったから、余計にこたえた。彼に期待してはいけないと言い聞かせながら、心の底では期待していた自分を思い知った。本当につらかった。

「彼女がラボを辞めると言うから、思いとどまってもらうために、少し話をした。それだけだ」

彼は困ったように頭を振った。

「私が食事に誘っても、行ってくれなかったのに」
「サラ」

彼が眉をひそめる。
分かってる。私が一方的にソフィアにヤキモチを妬いていた。だって誰が見ても、彼女の方が美人で、スタイルも良くて、知性も地位も彼にふさわしかった。お似合いだった。悔しかった。

「彼女なら良くて、私はダメなんだって、・・・つらかった」

多分、私は、とても醜い顔をしているだろう。嫉妬で崩れた女の顔を。
彼に見せたくなかった、こんな顔は。

「サラ、聞いてくれ」

彼が強く言い、私はほとんど睨み付けるように彼を見た。
彼は言葉を探すように、ゆっくりと語り始めた。

「私がずっと・・・、優柔不断だったせいで、君を何度も傷つけたことは、その、本当に申し訳なく思う」

そう言って、彼は長くため息をついた。

「ソフィアとは何もないし、私は」

彼がちらりと私を見る。

「私は・・・」

そう言ったきり、黙り込んでしまった。私をあのブルーグリーンの瞳で見つめながら、何も言わない。

「なに?」

いい加減、そうやって私に何かを言いかけて固まるのやめて欲しい。

「なに?」

馬鹿みたいに同じ質問を繰り返した。

「さっき、謝ったのは」

彼は再びため息をついた。

「この期に及んで、躊躇ったことに対してだ」
「なにを?」
「・・・緊張しているんだ、私も」

そう言って私を見た彼の顔は、むしろ怒っているように見えた。
私に?彼自身に?

私は何を言えばいいのか分からなくて、彼を見ていることも出来なくて、うつむいた。
彼が隣で、何度か身じろぎするのが分かった。

「サラ」
呼ばれて、仕方なく彼を見る。
「サラ、私は」
そこで彼はまた言葉を切り、固まってしまう。
いい加減にして、と叫びたくなった。
しかし、私が口を開こうとした瞬間だった。彼は私をまっすぐに見つめ、言った。

「君が好きだ」

私が息を飲み、言葉を探す間に、彼は再び体をこちらに乗り出した。
そして、唇がふさがれた。彼の唇で。
わずかの間、触れ合って離れた。
彼を見つめる。互いの視線が、絡んだ。
もう、我慢出来なかった。
私は彼の頬に両手を添えて、今度は自ら、彼に口づけた。心が、体が、震えた。
私たちは、何度も唇を重ねた。
互いの体を抱き締めた。
呼吸が乱れ、頭が痺れた。
互いに言葉は無かった。唇で語り合った。
やがてそれは深い口づけに移行した。泣きたいくらいの幸福に、私は包まれた。
「グリッソム」
吐息の合間に名を呼ぶ。愛しい人の名を。
と、彼が人差し指を私の唇に押し当てた。
「ギルバート」
ギルバートと呼んでくれ、と言う彼は、子供のように嬉しそうな顔をしていた。
「ギ・・・ギルバート」
試しに呼んでみる。彼はまたにこりと笑った。
私にはまだ少し違和感があったが、きっと慣れるだろう。

慣れるほどの時間を、彼と過ごしたい。

彼が再び唇を重ねてきた。すぐに深い口づけを求める彼を、私も受け入れた。
私の体に、彼が徐々にのしかかってくる。ソファに押し倒され、彼の手が体のラインをなぞり始めて、体中がざわめいた。
彼の求めている物は、もう分かっていた。
分かっている。私だって求めている。別に異存はない。
ない。
が、1つだけ問題があった。
わずかに焦ったとき、彼の指がスカートの裾にかかったのが分かった。太ももに、素肌に、彼の指が触れた。
ほとんど反射的に、
「ま、待って!」
私は声を上げた。

「は?」

今度は、彼が困惑する番だった。
彼の困惑は、よく分かった。当然だ。
彼は私を見下ろし、それから少し気遣わしげに言った。

「急ぎすぎか?」

違う、そうじゃない。
だが、彼がそう訊いた理由もすぐに分かった。
以前、事件関係者の女子高生が、深夜のジェットコースターで彼氏と睦んでいたことに対して、「最初のデートでしょ?」と苦言を呈したとき、彼も隣にいたのだった。
しかし、あれはあくまでも、彼女が高校生だったから。自分が高校生だったときと重ね合わせただけであって。

「あたし、そんな子供じゃないわ」

だから思わず、抗議じみて言った。
彼はほっとしたように笑った。

「じゃ、いい?」

あまりに素直な問いに、私は笑いそうになった。
彼を見上げる。
ブルーグリーンの瞳の奥に、確かに宿っている熱を、私は見た。
きっと同じ熱が、私の瞳の奥にも灯っていることだろう。

ただ、どうしても・・・・
どうしても、1つだけ、問題があった。

「・・・その、ベッド、で・・・」

言ってしまってから、私は恥ずかしさのあまり目をそらした。
彼が何をしようとしているか分かっていたし、彼にずっとイエスと伝えていたつもりだ。
だが、これでは、私が彼をベッドに誘ったのとほとんど変わらない。
私からこんなことを言うなんて。羞恥で頭に血が上った。

「もちろんだ」

彼は言い、優しく私の体を起こした。
私は彼の手を取った。

私からベッドに誘ったのと変わらないのなら、いっそ。

彼の両手を取り、私は彼を寝室に導いた。
彼が嬉しそうににこにことしながらついてくるのが、なんだか可愛く見えて、こちらも思わず笑った。

寝室に入り、抱き締め合い、再び唇を重ねた。
彼はすぐに、その唇を、私の首筋に落としていく。背後に回った彼が、指をファスナーにかけた。
ドレスがするりと肩を滑り落ちていく。

「あぁ、サラ・・・」

彼の熱い吐息が首筋にかかった。私も彼に向き直り、彼のシャツを脱がそうとした。
しかし、指が震えて、ボタンをうまく外せない。
彼は笑って、私の手を握ると、その手に口づけた。
そして、自らシャツを脱いだ。

私たちは、そのまま、ベッドへもつれこんだ。
情熱に煽られた本能のままに、私たちは求め合った。

とうとう、彼を、手に入れた。
なにがどうしてこうなれたのか、まだよく分からない。
諦めなければと、ずっともがいてきた。報われない徒労感に打ちのめされながら、それでも諦められなくて、何度胸をかきむしって泣いたか分からない。
それでも、彼とこうなれたのは、諦めなかったからだ。
「幸せになることを諦めてはいけない」。養母の言葉のおかげだろうか。
とにかく、何かが彼を変えた。それに感謝したかった。

・・・願わくば、それが私の過去のせいではないことを。

たとえそうでも。
今は、彼の与えてくれる情熱と歓喜に、融かされたい。
彼に、熱と悦びを、与えたい。

それが果たされたと分かったとき、私はかつてない満ち足りた幸福を感じていた。
おそらく、生まれて初めて、神に感謝した。

私の人生に、彼を与えてくれて、ありがとう。