その先にあるから
洗い髪が千鶴の肩を濡らした。土方は手拭いで毛先まで丁寧に叩き、水を吸い取っていく。恐縮しきりの千鶴が立ち上がろうとしたその肩に掌を載せ、黙ったまま動きを制した。すいません、千鶴が小さく謝るので、手拭いを頭に載せて水を拭いながらくしゃくしゃと撫ぜた。跳ねてしまった髪を掌で軽く押さえつけ、櫛の歯にひっかけないようにゆっくりと梳いていく。水気をなくし、体温で半分ほど乾いた千鶴の黒髪が元のように癖なく流れるようになってから、手触りを確かめるように指でなぞった。湯上りのせいか、それとも緊張のせいか、髪の隙間から薄く染まったうなじが目についた。甘い香りが漂うような心持ちがした。
土方は口元を緩めるとそのうなじに指を滑らせて、甘く歯を立てながら口づけた。
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女という生き物はかくも不思議なもので、教わったわけでもなかろうに赤子の抱き方と慈しみ方を知っている。千鶴が抱いている赤子は、自分をあやしているのが母親ではないと知っているからか甘えたり、笑いだしたりはせず、かといって泣きだすこともなく大人しく千鶴を見上げており、時々思い出したように自分のふくふくした指を吸っていた。
庭先で、千鶴が女と――赤子の母親と笑い合っているのを、土方は縁側に腰掛けながら見つめた。千鶴が抱えた赤子を母親に渡すと、赤子は途端に機嫌が良くなって声を上げて笑いだす。千鶴は目元を柔らかく寛げて、赤子の開かれた小さな掌に己の人差し指を握らせた。赤子が握り返すと、それだけでしあわせそうに笑う。土方が、見たことのない顔だった。
「春に生まれて、もうすぐ半年だそうです」
母子に会釈を返し終えて、千鶴は土方の隣に腰かけた。土方の視界に入った千鶴のかんばせは、土方がよく知っている妻のものに戻っていた。
女という生き物はかくも不思議なもので、教わったわけでもなかろうに幾つも顔を使い分ける。
女の顔、妻の顔、そして―――。
「お前も子ども、欲しくなったのか」
土方としては単なる疑問として投げかけたつもりだったのだが、あまりにも千鶴が狼狽するものだから、土方は瞬いた後に息を漏らす程度に笑って、分かったよとだけ小さくつぶやいて。千鶴の手を引き寄せて掌に唇を寄せた。
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正座した膝の上の頭が身じろいで、その重みとくすぐったさに千鶴は知らず口元を緩めた。額にかかる髪を、起こさないように静かに梳くように払うと男のひとらしからぬ、悔しいほど指通りの良い髪の手触りが千鶴の指に残った。呼吸に合わせて肩と胸が動いていて、その静かな動きは千鶴を何よりも安堵させた。
胸の辺りまで落ちてしまった薄手の掛け物を、なるべく膝は動かさぬよう、腕と手だけで土方の肩まで引き上げてやる。横向きに寝ているから、きっと頬に跡が残ってしまうだろう。起きた時にどんな顔をするのか、容易に想像がついて千鶴は微笑った。もう一度土方の前髪を梳く。今まで、生き急いで走ってきたひとだから、これくらいでいいのだ。少し歩幅を狭めて、立ち止まって、ゆっくり歩くくらいできっと帳尻が合う。いまだ起きる気配のない土方に向けて、小さく告げる。
「おやすみなさい、ゆっくり休んでくださいね」
動きのない、自分よりも大きな手に自分の手を添えるように重ねる。
大きな手がわずかばかり動いて、千鶴の指先をそっと握りしめた。
