2

あの日だけは、母は日が暮れてもわたしに寝なさいとは言わなかった。閉ざした窓の前に置いていた鉢を取り上げて奥の壁際の床の上に静かに降ろしたあと、いつものように内職の縫物を手に取ることもせず寝台に腰掛けてわたしを抱き寄せ蝋燭を吹き消した。真暗になった部屋に閉ざした雨戸の隙間から外の松明の揺れる明かりが漏れ入って、母の赤味を帯びた髪をまだらに照らした。

ねえ、この鉢には何を植えるの?

何も。

何も?

ひとつだけ、何も蒔かず何も植えない鉢を窓辺に置くんだ。毎日水をやっているとね、いつの間にか風が運んできた種が芽吹く。何が咲くかは神様だけが知っている。これはね、小さな『神の庭』さ。

風が運んでくる種なら、芽を出すのはつまらない雑草だわ。ーわたしたちみたいな。

最後のひとことは口には出さなかったけれど、彼はまるでわたしの頭の中の声が聞こえたかのようにわたしをじっと見つめ、少し悲しそうな微笑を浮かべた。

上等な服を着て沢山の本を読み大学に通う彼。彼は選ばれて大切に植えられた品種正しい花だ。気まぐれにわたしから花を買っていく、立派な馬車に乗って夜毎劇場や舞踏会に出て行く綺麗なドレスの娘たちやステッキと帽子を手に背筋を伸ばして通りを行き来する紳士たちと同じ。
字も知らず、ただ明日の食べ物の心配をしながら毎日を生きのびることに必死な母やわたしは逆らう力もなく風に運ばれて落ち、芽吹いた場所で必死に生きなければならない雑草だ。そんな考えが頭を過ぎり、わたしは母が丁寧に継ぎを当てアイロンをかけてくれたお気に入りの古いワンピースが急に恥ずかしくなってうつむいた。

そんなわたしを黙って見ていた彼はおもむろにその何も植わっていない鉢を持ち上げてわたしに差し出した。何かとても貴重なものをささげ持つような彼のその手つきに目を奪われて、気づけば両手にそのざらざらとした手触りの重い鉢を受け止めていた。

きみにあげる。毎日水やりを忘れないで。

手の中の『神の庭』を見下ろしながら家まで歩いた。
怪訝な顔をしながらも窓辺の水差しや置物をどかして場所をつくってくれた母と一緒に黒い土に水を注ぎながら、いつ芽吹くだろうか、何が咲くだろうかと心踊らせている自分に気づいた。

わたしたちは神様が地上に蒔いた種。

特別信心深いわけでもないのに、そんな考えが心に浮かんだ。
自分は雑草だという、彼の部屋で心をかすめた苦い思いはまだ薄く胸の内に残っていたけれど、黒く湿った土を見つめながらわたしは知らぬ間に微笑んでいた。雑草だっていいじゃない。花に名前をつけるのも値段をつけるのも人間が勝手にしたこと。彼はきっと神様と同じ目で花を、人を、わたしを見てくれている。

彼の澄んだ淡い色の瞳を想うたびに心に灯るあたたかい気持ちは、あのころの幼いわたしには名づけられないものだった。

To be continued.