Aquila & Leo


マリンが目覚めたのは翌朝であった。 瞼を開くと見慣れた天井が目に映り、しばらくマリンはここ数ヶ月のことを完全に忘れていた。

〝もうそろそろ星矢を起こさないと… 今日は何の勉強をさせるんだったろう?〟

しかし思い出そうとしても、どうも上手く咬み合わない。 まるで何かが足りないような――

〝どうして服のまま寝ているんだ? 何だか身体もだるいし…。 一体、寝る前に何をしていたんだ…?〟

額に手を当てた。 そしてマスクがないことに気付いた。

〝なぜマスクが…?! 星矢が悪戯でも… まさか! でも…〟

ベッドの隣の小さなテーブルに、マスクは置いてあった。 嵌めながら星矢の部屋へ行き、戸を叩いた。

「星矢! 星矢? どこにいるんだ、星矢?!」

誰もいない部屋の戸口で、マリンは独り、佇んだ。

〝一体、どうなってるんだ? マスクと言い、星矢と言い…。 マスク… 星矢…〟

一瞬マリンは何かを思い出した。 薔薇の宮の階段を登りながら、星矢にマスクを渡したことを――

〝そうだ! 星矢は黄金聖闘士と闘って―― いや、神闘士と闘って―― 嗚呼! 私はアルベリッヒにやられて、シャイナにここまで連れて来られたんだ! 海底神殿の入り口は見付かったんだろうか? こうしてはいられない!〟

家を飛び出したマリンは、ちょうど入ろうとしていたアイオリアにぶつかった。

「アイオリア!」

「マリン! 大丈夫か、歩いたりして?」

「星矢達は、海底神殿の入り口を見付けたか?!」

「いや、まだ何の連絡もない。 それより、もう少し休んでいなければ… 無理をしない方が――」

「大丈夫だ。 早く行って、探すのを手伝わなければ――」

「それは無茶だ! 行かせる訳にはいかない。 第一そんな身体で行っても、足手纏いになるだけだ。 それに、老師が行くなと命じられたんだ。 まぁ、黄金聖闘士に言ったんだが…。」

「なぜ?! アテナが攫われたと言うのに!」

「…分からん。 だがとにかく、待つしかない。 今の内に休んでおけば、いざ俺達が加勢に行く時、一緒に行けるだろう? さぁ――」

「し・しかし――」

「しかしもカカシもない! さぁ、中へ入って…! 今スープを作るから、おとなしく待っててくれ。」

仕方なくマリンがソファーに腰を下ろすのを確認してから、アイオリアは隣室の小さな台所へ、何やらゴソゴソと抱えていた紙袋を持って行き、薪を焚いて鍋で湯を沸かし始めた。

「ニンニクは好きか?」

「エ? あ・あぁ。」

「早くスタミナを付けないと、な!」

手際良く野菜や肉を切り刻み、アイオリアは無造作に鍋に放り込んでいった。 マリンも少し落ち着き始めた。 が、またマスクのことが気になった。

〝最後に覚えているのは、シャイナが戻って行って、アイオリアに運ばれて…。 眠ってる間に、自分で外したんだろうか? だがそうすると、アイオリアに顔を見られたかも知れない! 何も言っていないが… 訊かなければ!〟

「アイオリア、夕べ――」

「ン? 何だ?」

マリンは立ち上がり、台所へ歩いて行った。 ちょうどアイオリアも料理に一段落付き、ナイフを片付けていた。

「夕べ、寝ている間に、マスクを外したようなんだが…」

この時が来るのを、アイオリアは一晩中恐れていたのだ。 マスクを嵌め直して、何も無かったかのように振る舞うか、あるいは全てを告白するか。 実際には決断できる前にマリンが目を覚ましてしまったので、やはり話さなければならないと覚悟をしていたのだが、彼女が自分で外したと思っている今、まだ選択しなければならない。 アイオリアの脳裏を、色んな思いが廻った。――


一度くらい嘘をついても、今までの実績から、きっとマリンは信じてくれるだろう。

しかし以前のような曖昧な関係ではもう物足りない。 ハッキリさせたい。

女聖闘士は始めて顔を見られた男を、愛するか、殺すか、どちらかの道を選ばなければならない。

〝食われても本望…〟

白銀聖闘士が黄金聖闘士にかなう筈は無い。 セヴン・センシズに目覚めていない限り…

だが力尽くで、愛させることはできない。


――マリンもそれ以上は言い辛く、言葉を途切らせていた。 そしてアイオリアは一瞬の内に、答えを決めた。

「マリン… 俺が外したんだ。」

「な・何だとっ?! お前が…?!」

無表情な仮面をしていても、その驚きは明らかであった。 その目の位置をしっかりと見据えて、アイオリアは言った。

「あぁ。 本当にすまない。 殺すなら、抵抗はしない。」

「…なぜ?」

「それは… 口付けをしたかったから…」

「ナッ!!!」

反射的にマスクの上から口を押さえ、力無くニ・三歩あとずさるマリンに、アイオリアは詰め寄って懸命に話した。

「愛してる、マリン! ずっと前から、お前だけを――」

「掟を知ってて、なぜ…? なぜそんなことをした?!」

「もう何年も堪えていたんだ! 星矢が一人立ちするまでは、と…。 だがそうかと思えば、お前はあいつの後を追って聖城からいなくなっちまって… 連絡も無しに、どれだけ心配したか! それで帰って来れば、この有様だ! 俺はもう、耐えられない…!」

弱々しく立っているマリンをアイオリアは両手で抱き締めようとした。 しかしマリンは最後の力でそれを押し返した。

「だからって… 勝手に、そんな…!」

「マリン、愛してる! どうしても嫌なら、一思いに殺してくれ!」

「そんな… 嘘だ! 本当に愛しているなら、こんなことはしない筈だ!」

絡み付く腕を払いのけ、踵を返してマリンは寝室に駆け込んだ。

「嘘じゃない、マリン! 信じてくれ!」

しかしアイオリアの訴えに答えたのは、激しく閉められる扉の音だけであった。


〝嘘だ… 嘘だ! 愛しているなら、こんなことをする筈が無い! 嗚呼、でも… アイオリアに限って、なぜ?!〟

マリンは床に座り、マスクごと顔をベッドに埋めて泣いた。 その湧き出す涙の理由は、自分でも分からなかった。


アイオリアは、閉ざされた部屋の外で、ノックするべきか、立ち去るべきか、悩んでいた。

〝何てこった! こうなると知ってたら、何も言うんじゃなかった! …いや、勝手にマスクを取ったのがそもそもの間違いだった。 分かっていそうなものを…。〟

彼が覚悟と決めた時点で、ぼんやりと想像していた結果は――

自分の気持ちをマリンが快く聞き入れ、二人で仲良く食事をする

――か――

自分の犯した罪の当然の報いとして、マリンがイーグル・トゥ・フラッシュで心を貫く

――の二つだけであった。

〝一思いに殺された方が、まだマシだった。 マリンにこれほど嫌われてしまうとは… 俺は何て馬鹿なんだ!〟

いつも突っ走り、後悔させられる自分の性格を、アイオリアは心底恨んだ。

鍋のスープが煮え立つ音が耳に届き、アイオリアは火を落とすのに台所へ戻った。


涙がマスクに溜まり、鼻の中にまで入ってきたので、仕方なくマリンはマスクを外して顔を毛布で拭った。

〝何でこんなことを…。 愛してるだなんて… 本当、なのか?〟

なぜ自分がこれほど動揺しているかすら分からず、マリンは惨めに泣きじゃくっていた。 すると、部屋の戸口で小さなノックが聞こえた。

「マリン… 俺はムウの白洋宮に行ってる。 スープは、熱い内に食べてくれ。」

そして答えられずにいると、静かにアイオリアの足音が遠ざかって行った。

〝アイオリア!〟

マリンは扉にへばり付き、また零れ始めた涙を堪えようとした。

飛び出して行きたかった。

素顔で、アイオリアと話したかった。

掟など忘れ、何も無かったかのように、今まで通り、良き友として…。

しかし追っては行かなかった。 迷いと、プライドに阻まれたのである。


ムウの宮に着くと、アイオリアは星矢達が海底神殿の入り口を見付けたことを知らされた。 すぐにマリンに伝えたかったが、顔をあわせるにはまだ早過ぎると判断し、手頃な鋼鉄(アイアン)聖闘士に言伝を命じた。


その鋼鉄聖闘士が来た時、マリンは恐る恐る、台所の鍋を覗いていた。 アイオリアが察した通り、エネルギーの消耗から酷く空腹であった。

ドン!ドン!ドン!

「イーグルのマリン! アイオリア様からの言付けだ。 星矢達が海底神殿の入り口を見付けて、突入したとのことだ!」

「了解した。」

マリンは顔を見せずに答え、鋼鉄聖闘士はそのまま去った。

食欲などもう無い。 しかし、何か食べなければ身体がもたない。 小さな椀にスープを掬い入れた。

〝熱い内に飲んでくれ…〟

そんな優しい言葉が、まだ耳に残っていた。

マリンは不思議に思った。 いつも優しいアイオリアが、人の気持ちを踏み躙るようなことをするとは、いまだに信じられなかったのだ。

〝なぜ? こんなことをすれば、殺されても文句は言えないと分かっていながら… もっとも、私の適うような相手ではないが…。〟

〝抵抗はしない…〟

〝本当に、殺されるつもりでいたのか? でも何の為に? …どっち道、前の状態には、もう二度と戻れない。 それを知ってて、なぜ?〟

〝ずっと前から、お前だけを…〟

〝私にどうしろと言うんだアイオリア! どうすれば良いんだ…。〟

〝マリン… 愛してる…〟


海底神殿への入り口が見付かったと聞き、アイオリアは急いでレオの黄金聖衣を装着した。 老師が黄金聖闘士を聖城に集めたのは総攻撃を掛けるためだと思っていたからである。 しかし、依然としてムウは動く気配すら見せなかった。 当初、老師から『動くな』と言われた時は、まだマリンのことが気に掛かっていたので、聖城にいられる口実ができて内心嬉しかった。 だがマリンが回復しつつある今――と言うよりは、彼女と会うのがあまりにも気まずくなってしまった今――何の役にも立たず、一所に引き止められているのは堪らなくじれったかった。 そうして数時間が過ぎた後、痺れを切らしてアイオリアは口を開いた。

「ムウ。 老師は俺たち黄金聖闘士をこの聖城に全員集合させて、『動くな』とはどう言うことだ?」

「アイオリア…。」

振り向かなくとも、ムウには彼の苛立ちが伝わってきた。

「アテナの小宇宙は、数時間前から全く途絶えてしまった。 星矢達の小宇宙も、その殆どが感じられなくなっている。 このままでは、アテナも星矢達も全員死ぬ。 それでもこの聖城を動くなと、老師は言うのか?」

「教皇無き今、老師は聖闘士の最高の指導者…。 その指示に逆らう訳にはいかないでしょう。」

「バカな! 老師はアテナと星矢達を見殺しにするつもりなのか?! どうなんだムウ? 答えてくれ!」

「そうかも知れません…。」

ムウは自分の言葉の意味することに涙を浮かべ、続けた。

「この闘いが始まった時から、星矢達には死んでもらうつもりだったのかも知れません。」

ムウの後ろで呆然と立ち尽くすアイオリアには、その涙は見えなかった。 例え真っ向から見ていたとしても、降り頻る雨の中に朝から立っていたムウの顔の雫を、見分けられたものか…。


〝本当に、良い奴なのに…。〟

冷め切ったスープを温めながら、マリンは思っていた。 朝、アイオリアと別れてから、少しスープを飲み、疲労と苦悩に苛まれてまた寝込んでしまった。 昼過ぎに目覚め、まだ大量に残っていたスープをありがたく感じながら、アイオリアに対する気持ちを整理しようとしていた。

〝私が日本人だと言うことを少しも気にしなかったし…。 きっと兄のせいで、自分も差別されていたからだろうな。 考えてみれば、私もアイオリアも、聖城の嫌われ者だったな…。〟

今度は大きな椀――星矢の使っていた物――にスープを入れ、珍しくテーブルで食べた。 星矢のいた頃は、顔を見せられなかったので、いつも寝室で食事を取っていた。

アスガルドで骨まで凍る体験をした後の熱いスープは、格別だった。

〝アイオリア… いつも親切に、色んなことをしてくれた。 聖衣を獲得した時も、祝いにこれをくれたな…。〟

左手で、腰に結ばれたスカーフに触れた。 あの時、アイオリアはうっかり自分の名前をカードに書き忘れたのだが、マリンにはすぐその贈り主が分かった。 祝ってくれる人など、他にはいなかったからである。 だからこそ、ただの白い生地を、どれほど嬉しく思った事か。 どれほど心を弾ませ、白い糸を買いに行き、スカーフとレギングズに仕上げたことか。

温かな食事が温かな思い出を呼び覚まし、マリンの冷え切った胸を溶かしていった。