Episode 12.2 Epilogue(03)

Spoilers : S3#22(傷だらけのCSI/Play with Fire), S3#23(封印された過去/Inside the Box)
Rating : M(Subject Matter)
AN : ちょっと長めのチャプターとなっています。エピローグです。Rating Mですが、話題のせい(Subject Matter)です。


サラはバスタブに張ったお湯に浸かっていた。
滅多にしないのだが、アロマを焚いて、泡風呂を入れ、肩までどっぷりと浸かっていた。
時々、大きく溜め息をついて、わざと泡を飛ばしたりしていたが、今は後頭部をバスタブの縁に乗せて仰向けて、目を閉じていた。
「頭の中が、グルグルする・・・」
呟いて、サラは1人笑った。まるで酔っ払ったみたい。
お酒は飲んでいない。飲んで風呂に入るとどうなるか、体験済みである。とても恥ずかしくて、誰にも話したことは無いが。もちろん、グリッソムにも話したことは無い。
開け放したリビングルームからは、微かに音楽が流れてきていた。ピアノの旋律がゆったりと聞こえていた。
その音色の合間に、ふと異質な音を捉えて、サラは耳を澄ませた。
思わず体を起こす。
間違いなかった。部屋のドアをノックする音だ。
サラは深々と息を吐いた。
多分、彼だろう。
都合が分かったら電話してと言ったのに、いきなり来るとは。
会うまでにはまだ時間は取れると思い、だからそれまでにゆっくり頭の整理をしておこうと、サラは風呂に入ることにしたのだった。
しかし、正味30分ほど浸かっているが、サラの頭はまったく整理出来ていなかった。泡ももうそろそろ消えてしまいそうだというのに。
何をどう言ったら、彼を傷付けずに、説明出来るだろう?
サラは湯船の中で、膝を抱えて背中を丸めた。
もう一度、ドアをノックする音がした。今度はより強く。
ああ、イラついているな、と思って、サラは少しだけ出ようか迷った。
今すぐに風呂を出て、バスローブを羽織って、ドアを開けに行くべきなのは分かっていたが、サラはただ、湯の中に座っていた。
次に家の電話が鳴った。
・・・2回、3回、・・・彼は7回までは鳴らす。・・・6回、7回、・・・ほらね、切れた。
その次に鳴ったのは携帯電話だった。
・・・これは5回で切る。
携帯電話はいったん静かになった。だがすぐに再び鳴り始めた。
・・・これはどうするかな。留守電セットしてないと、どれくらい鳴らしたら転送されるんだっけ。
8回まで数えて、サラは溜め息をつきながら、ようやく立ち上がった。
携帯電話は鳴り続けている。
「分かった、分かったから」
バスタオルを掴み、ほとんど濡れたまま、サラは寝室に入った。
ベッドの上に放り投げてあった携帯電話を取る。
「サイドル」
「・・・サラ。・・・私だ」
躊躇いがちな声がした。たったそれだけで、サラは申し訳なさで胸が締め付けられた。
「待って。いま開ける」
「部屋にいるのか?」
「うん」
そう言ってサラは電話を切り、いったんバスルームに戻ってローブを羽織った。バスタオルで髪をざっと拭いて、そして玄関へ向かった。
ドアを開けると、少し拗ねたような顔をしたグリッソムが立っていた。
サラは
「どうぞ」
グリッソムを中へ招き入れた。
「寝てるのかと思ったよ」
「お風呂、入ってた」
「そうか・・・」
リビングに入ると、
「着替えてくるから、適当に何か飲んでて」
サラはそう言ってバスルームへ行こうとした。
「サラ・・・」
グリッソムが何か言いたそうに呼び止める。
しかしサラは溜め息をついて、それを押しとどめた。
「着替えてから」
「・・・分かった」
バスルームへ、その先の寝室へ向かったであろうサラの背中を見送って、グリッソムはしばらくズボンのポケットに両手を入れたままそこに突っ立っていたが、しばらくすると、キッチンに向かい、お湯を沸かし始めた。
サラがTシャツとスエットパンツに着替えて戻ってくると、グリッソムがちょうど紅茶を淹れ終えたところだった。
「飲むか?」
「・・・うん」
グリッソムが二つのマグカップを持ってキッチンを出てくる。
サラはソファに座った。すぐに座る場所を誤ったと思ったが、もう遅かった。隣にグリッソムが急いで腰を下ろす。
「ありがと」
マグカップを受け取って、サラは香りを嗅いだ。
「ジャスミン?」
「ああ」
グリッソムはしばらく、黙って紅茶を飲むサラを見ていた。
ふと、グリッソムはサラの濡れた髪に手を伸ばした。濡れるとカールが強く出るのが、グリッソムは好きだった。
「君は、綺麗だ・・・」
思わず呟くと、サラが片方の眉をゆっくり上げるのが見えた。口元はマグカップで見えないが、きっと照れ笑いしているのだろう。
「監視、してたんじゃ、無いんだ」
突然始まったグリッソムの釈明に、サラは目を伏せた。
「でも、君が怒るのは当然だ」
サラは溜め息をついて、首を横に振った。
「怒ってはいない」
「そうなのか?」
「ただ・・・ショックだっただけ」
「そうか」
その言葉の方が、グリッソムにはショックだった。自分はまた、彼女の信頼を裏切ってしまったのだろうか?
「ただ、見届けたかったんだ。君の・・・君の、戦いを」
サラは俯いて、唇を噛んだ。
「上司として君を見てたんじゃないんだ」
グリッソムの言葉に、サラがちらりと上目遣いをした。
「見守りたかっただけなんだ。君の・・・君の最大の、理解者として」
サラはマグカップを両手で包みながら、小さく頷いた。
「分かってる」
「ほんと?」
「ええ」
サラは顔を上げてグリッソムを見た。
「そうか」
そう言ってグリッソムは黙り込み、カップを口に運んだ。
「でも・・・ずっと、ああするわけには行かないでしょ」
サラが静かに言うと、グリッソムはやや躊躇いながら、頷いた。
「ああ」
「ね、ギルバート」
サラは右手を伸ばすと、グリッソムの左手にそっと被せた。
「しんどいときは、ちゃんと言う。約束する」
グリッソムはじっとサラの瞳を見つめた。
「約束する」
もう一度強く言って、サラはグリッソムの手を握る指に力を込めた。
「だから、過保護にならないで」
グリッソムはその言葉に、明らかに気まずそうにした。思わず右手で頭を掻いた。
「やはり、過保護か、私は・・・」
サラはちらりと笑った。
「少しね」
「サラ。私は、ただ・・・君に、傷付いて欲しくなくて・・・君を、守りたいんだ」
サラはもう一度グリッソムの手を強く握った。
「分かってる。・・・ありがと」
そう言ってサラは笑ってみせた。グリッソムもまた、微笑んで、そして小さく何度か頷いた。
それからしばらく、グリッソムは黙ってカップを何度も口に運んだ。
サラも静かに紅茶を飲んでいた。

お互いに、本当に話したかったことは、そのことではないことは、分かっていた。
どう切り出せばいいのか、彼が言葉を選びあぐねていることは、痛いほどに分かった。なぜなら、彼女もそうだったから。サラもまた、マグカップの中の液体を揺らしながら、何をどう言えばいいのか、考え続けていた。

ついにマグカップを置いて、意を決したように深呼吸をしたのは、サラだった。
「あの取り調べで言ったことだけど」
グリッソムがぴくりと反応する。その会話を望みながらも、彼が同時に恐れていた事も、それで分かった。
しかし、このままそこに触れずにいくことは、きっと2人の関係にとってマイナスだ。
そのことだけはサラにも確信出来た。
だから、どんなに難しくても、説明しなければ。

ーーだから、私は子供は産まない。

あの発言を、説明しなければ。

「そう、何となく決めて、生きてきて、それで、今まで、特にそれを考え直したことはなくて、だから、なんていうか、その・・・」
サラはイライラと髪をかき上げた。
やっぱり、全然、うまく説明出来ない。
「言葉が適切か、分からないんだけど、その・・・えっと・・・何て言うか、惰性で、そう考えてきてて、本心を言えば、多分、そうしたいのは本音なんだけど、だからって、それは、あなたとの関係は、関係ないって言うか・・・いえ、そうじゃなくて、」
「サラ、サラ」
思わず苦笑しながら、グリッソムは早口でまくし立てるサラを止めた。
サラはハッとしたようにグリッソムを見つめた。
「あたし、話しすぎてる?」
グリッソムは肩をすくめた。
溜め息をついて、サラはまた髪をかき上げた。
「あの・・・ギルバート、でも、・・・ごめんなさい、やっぱり、うまく言えない」
グリッソムはカップを置いて、サラの両手を取った。
「なぜ、子供を産みたくないんだ?」
「聞いてたでしょ」
サラは思わずグリッソムをマジマジと見た。
「話して」
グリッソムはサラの瞳を覗き込んで言った。サラはしばらくその視線を受け止めていたが、やがて目を反らした。
「分かってるでしょ」
「話して」
グリッソムはサラの両手を握る力を強めた。やがてサラは、溜め息と共に、吐き出すように言った。
「親になるのが、怖いから」
「なぜ?」
「父のように、子供を虐待してしまうかも知れない。母のように、カッとなって、殺してしまうかも知れない。そんなの・・・ダメ、無理」
グリッソムはしばらく、サラの指を撫でていた。
「君がそう考える理由は、理解出来ないわけじゃ、ないよ」
やがて静かに、グリッソムは言った。
「それに、親になることを恐れる気持ちも、少しは、分かる」
グリッソムは自分の手の中のサラの手を見つめた。
彼もこれを話すべき時が来たのだ。
「そして・・・積極的に自分の子供を持ちたくないと考えているのは、君だけじゃない」
サラがゆっくり顔を上げる。グリッソムを驚いたように見ているのが分かった。
グリッソムはひとつ、溜め息をついた。
「母が聾者なのは話したね?」
「ええ・・・」
「耳硬化症という病名を聞いたことは?」
「・・・あると思うけど、詳しくは知らない」
グリッソムは一瞬目を閉じて深呼吸をした。
「母がそうなんだ。そしてこれは、遺伝する」
サラが何度も激しく瞬きをした。不安に瞳が揺れている。
「私も、発症した」
サラの目が大きく見開かれた。
「いつ?」
グリッソムは少し考えた。
「3年ほど前、かな?」
サラの視線がさっと動いて何かを思い出した。
「ラボの爆発事故があった頃?」
グリッソムはまた溜め息をついた。やはりあの話を避けて通るわけには行くまい。
「そうだ」
「でも、今・・・聞こえてる、わよね?」
サラの顔に困惑が浮かぶ。
グリッソムはちらりと笑った。
「聞こえてるよ。むしろ地獄耳になった」
「どういう意味?」
「手術をしたんだ」
「いつ?」
「あの爆発事故の少し後だ」
サラは何かを考えるように視線を落とした。そして直ぐに上げた。
「2週間ほど、休み取ったとき?」
「そうだ」
「セミナーだって聞いてたのに」
「キャサリンが、うまく話を作ってくれたんだ」
サラが口をパクパクとさせるのを、グリッソムは半分愉しむように、そして半分申し訳なさそうに見ていた。
「どうして、言ってくれなかったの?」
「聴力を失いかけてると?捜査官を続けられなくなると?」
サラは唇を噛んで、グリッソムを見上げた。
「手術だってことだって・・・」
「手術で内耳障害が起きたら、完全に聴力を失う危険もあったんだ。だから、・・・話したくなかった」
サラの胸には、色んな感情が入り混ざっていた。その一つ一つがなんなのか、サラは考えたくなかった。
「あの頃は、聞こえが悪くなって、僅かに聞こえる音と、唇を読んで何とか仕事をしていた」
「唇を?」
「読唇術。母に教わったんだ。母もそれで、手話がなくてもある程度の会話が出来る」
サラはふと、目を閉じて思い出した。
「あたし、あの頃・・・」
なぜか突然、顔を赤くしたサラを、グリッソムは不思議そうに見つめた。
「あなたが、私の顔をじっと見てるときがあるって気付いて・・・」
苦笑を浮かべて、サラは頭を小さく振った。
「てっきり、あなたが、私に・・・」
サラは思わず膝に額を打ち付けた。
「やだ、すっごい勘違いしてた。恥ずかしい」
サラは耳まで真っ赤になっていた。
グリッソムは思わず笑いかけたが、直ぐに真顔で、サラの手を握った。
「必ずしも勘違いではないよ」
サラが膝の上から、ちらりと目線を寄越した。
「君の唇を見るのは、好きだった。・・・今も」
その唇に触れたら、どんな感触だろうかと、いったい何度妄想しかけたことだろう。
「あたし」
サラが突然顔を上げて言った。
「勘違いして、チャンスがあると思って、それであたし、あなたを食事に誘った」
やはりその話題になった。グリッソムはいたたまれず俯いた。
意を決しての誘いを断られて、傷付いていた彼女の瞳を思い出すと、今でもつらかった。
「あの日は、実は・・・」
グリッソムは大きく溜め息をついた。思わず髪をくしゃくしゃとかき乱した。
「専門医と手術の日程を決める約束が入っていたんだ」
あの日でなかったら。彼の耳が健康なときだったら。
その後の展開は何か、変わっていただろうか?
「ぎりぎりまで引き延ばしていたから・・・あの日が、最後のチャンスだったんだ」
ゆっくりサラに視線を戻すと、サラはあの時と同じ表情をしていた。彼に拒絶されて、傷付いていた、あの表情を。
「あたし、最悪のタイミングだったわけ?」
「まあ、そうだ」
サラは両手で膝を抱えた。ゆっくり体を前後に揺らしながら、
「タイミングが違ってたら、答えは変わってた?」
掠れた声で尋ねた。
グリッソムは首を小さく横に振った。
「分からない。・・・分からないよ」
サラはまた膝に額を乗せた。前後に体を揺する幅が大きくなった。
「そう・・・そうよね」
サラはそれ以上は何も言わなかった。
過去のグリッソムの言動を、責める言葉を彼女が口にしたことは、これまで一度もなかった。冗談めかして言うことはあっても、明確に非難したことはないのだ。
この会話になれば、そういうこともあり得ると、グリッソムは密かに覚悟していたのだが、やはりサラは何も言わなかった。グリッソムはある種の驚きを持ってサラを見ていた。
あの時の自らの言動を改めて振り返る。あの日の彼には、選択肢はなかったのは確かだ。しかしその後も、彼女を遠ざけ続けたのは、確かに、彼の過ちだった。
だから、グリッソムは、たとえサラが彼を責めてなじったとしても、受け容れるつもりだった。
グリッソムはしばらく、サラが体を揺らしているのを見ていたが、やがてそっと、彼女の肩に手を置いた。
サラはぴくりと体を強張らせ、動きを止めた。そして、一つ溜め息をつくと、ゆっくり、顔を上げた。
「今は、大丈夫なの?耳は、もう・・・」
「もう、心配はない」
サラは右腕をグリッソムに伸ばした。そして躊躇いがちに、そっと耳に触れた。
「傷跡は、あるの?」
「耳の中にな。外からは見えない」
「そう・・・」
尚も優しく耳に触れるサラの手を、グリッソムはそっと抑えた。
「私の耳は、もう心配ないが、私の子供として生まれてくる者には、別の話だ」
サラは指の動きを止めてグリッソムを見つめた。
「さっきも言ったとおり、この病気は遺伝する」
だから、彼もまた、自分の遺伝子を残すことには、積極的にはなれなかった。
「これまで漠然と、自分は子供を作らないと思ってきた。だから結婚することもないだろうと」
言ってしまってから、グリッソムはそっとサラの様子をうかがった。
サラは真剣な面持ちで頷いていたが、それだけだった。
彼の恐れていたような、ショックや、怒り、あるいは失望・・・そんな反応は見えなかった。内心でグリッソムは安堵の息をついていた。この先の話に、どうやら、進めても大丈夫かも知れない。
「相手を特に、誰かと、想定した話ではなくて・・・」
急にグリッソムは言葉に詰まり始めた。サラがやや首を傾ける。
「ただ、あー、漫然と、そう、君が言ったとおり、惰性で、最初にそう思ってから、その、ずっとそう思ってきたから・・・決して、絶対に子供が要らないと思ってるかというとそうではなくて、あ、いや、だからといって君と子供が欲しいと言っているわけではなくて、あー、とはいえ、要らないと言っているわけでもないんだ・・・」
「ギル、ギルバート」
今度は、サラが、グリッソムを止めた。その口元には少し、微笑が浮かんでいた。
「落ち着いて」
「え?あ、ああ・・・」
サラは少しの間目を伏せ、それからもう一度グリッソムを見た。彼の腕に、そっと手を乗せた。
「あなたの言いたいことは、多分、分かる」
グリッソムは思わずサラを見つめた。
「本当?」
「あたしも、さっき、同じ事が言いたかったから。・・・多分」
グリッソムは思わず息を吐いた。
「そうか」
思わず何度も、ため息が出た。おもむろに手を伸ばすと、コーヒーテーブルのマグカップを取って冷えた紅茶をゴクゴクと飲んだ。

お互い、事情があって、自身の子供は持たない、と、生き方として漠然とそう考えてきた。固い決意では無いとしても、きっと自分の人生はそうなるだろうと、受け入れてきた。そうでない道を模索する理由を、持っていなかった。
そして、二人とも、この関係を、今までそこに当てはめて考えたことがなかった。
彼の子を、産みたいと思っているわけではない。だがそれは、彼の子が欲しくないという事ではない。
彼女との子が、欲しいと思っているわけではない。だがそれは、彼女に自分の子供を産んで欲しくないという事でもない。
ただ、「考えたことがなかった」。それだけなのだ。

二人はしばらくまた、黙って座っていた。お互い、視線を避けて。
「あー、それで・・・」
また口火を切ったのはサラだった。
「お互い、どう考えてきたかは、分かった」
「・・・そうだな」
グリッソムは息を詰めた。いよいよ、核心に入る。一気に汗が噴き出てくるのを感じた。
「それで、・・・どうする?」
サラは視線を合わせないままで聞いた。
グリッソムは大きく息を吸った。そして、躊躇いながら、言った。
「サラ。・・・正直、まだ、考えたことがなくて」
「・・・分かってる」
サラは目を閉じて、小さく頷いた。その横顔からは、グリッソムの言葉をどう受け止めたのかは、分からなかった。
「今、決めたいか?」
しばらく迷って、グリッソムはそう、静かに尋ねた。
グリッソムにとって意外なことに、サラは首を激しく横に振った。少し驚いて、グリッソムが黙っていると、
「ギルバート・・・」
サラが話し始めた。
「あたしたち、まだ・・・まだ、その段階にはいないと、思う。違う?」
グリッソムの胸に安堵が広がった。そして、サラの的確な言葉に、大きく頷いた。
まだ、その段階にいない。
そう、その通りだ。彼女との関係は、もちろん、未来を見越したものにしたい。だが、子供や結婚を考える段階では、まだ、無いのだ。今は、まだ。
「ああ、そうだな。・・・その通りだ」
答えながら、グリッソムはやや不安そうにサラを見た。そしてサラもまた同じように不安そうに彼を見ているのに気付いた。
まだ明らかに準備が出来ていないグリッソムに、彼女が合わせてそう言ってくれているのではないかという疑いが、一瞬彼の胸の内に浮かんだのだが、サラの表情を見て、どうやらその心配は無さそうだと分かった。
「ホントに、そう思う?」
サラが掠れた声で尋ねる。
「思う」
グリッソムが答えると、ふぅっと、サラは長い息を吐いた。
そして今度は彼女が、マグカップの冷えた紅茶をゴクゴクと飲み干した。

再び、奇妙な沈黙が訪れた。
グリッソムはその原因が分からず、何度も居心地悪く身動ぎをした。
サラの俯いた横顔を見ると、彼女が何かを考え込んでいるのが分かった。
「サラ・・・?」
しばらく待ってみてから、グリッソムは恐る恐る声をかけた。
サラがキュッと唇を引き結ぶのを見て、グリッソムは身構えた。
「あたし、あなたに言わなきゃいけないことがある・・・」
サラの言葉に、グリッソムは顎を引いた。ますます身構えた。
・・・これ以上、いったい何の話があると言うんだ?
グリッソムは高速でいくつかの可能性について考えた。
・・・子供の話をしていた。関連する話か?もしかして、昔、妊娠したことがあるとか?まさか、中絶したことがあるとか?さすがにそれは、冷静に聞く自信がないぞ。いや待て、ギルバート、先走りすぎだ。
グリッソムは再び汗が噴き出るのを感じていた。
「ずっと、言ってなくて、心苦しかったから・・・この際だから、言うわ」
グリッソムは口をパクパクと動かした。喉が渇いてきた。待ってくれ、心の準備が、と言いたかったが、全く声にならなかった。
「あたし、避妊ピルを飲んでる」
グリッソムは耳を疑った。
「は?」
「あなたにずっとコンドーム使ってって言ってきたけど本当は避妊ピルを飲んでるの」
サラは早口で一気に言った。
グリッソムは瞬いた。何度もぱちくりと瞬いた。
「あー、それで?」
サラはやっとグリッソムを振り向いた。
「それだけ」
グリッソムが何度も瞬くのを、サラはどこか不安そうに見つめた。
「あの・・・、ごめんなさい」
なぜサラが謝っているのか、グリッソムには分からなかった。
「あー、・・・で?」
「で、って?」
今度は怪訝そうに、サラがグリッソムを見つめる。
グリッソムは長い長い、安堵の息を吐いた。思わず額の汗を拭った。
「話は、それだけか?」
「うん・・・」
「そうか。あー、・・・そうか、なんだそうか」
「なに?」
さすがにいらっとした様子でサラが顔を覗き込んできた。
「もっと凄い爆弾を落とされるのかと思ったよ・・・」
「・・・爆弾?」
顔をしかめるサラに、
「いや、いいんだ」
グリッソムは慌てて取り消した。
「・・・怒ってない?」
探るように聞いてきたサラに、グリッソムは首を傾げた。
「なぜ、私が怒るんだ?」
「だって・・・」
サラはもじもじと俯いた。
「避妊薬、飲んでること、黙ってたから」
グリッソムは思わず笑った。
「知ってたよ」
「え?」
サラの目が大きく見開かれた。
「嘘」
「本当」
「どうして?」
「君の周期がほとんどぴったり28日なのに、気付かない私だとでも?」
サラは口をぽかんと開け、そして閉じて唇を噛んだ。恥じらいを帯びた苦笑が浮かんだ。
「そっか・・・そうよね」
それからふと、不思議そうにグリッソムを見つめた。
「ピル飲んでるの知ってて、コンドーム使ってくれてたの?」
「ああ」
サラがそれをなぜ不思議そうにしているのか、グリッソムには分からなかった。
「それが、何か?」
「だって・・・みんな、ピル飲んでるって知ったら、使いたがらなかったから」
「・・・みんな?」
あ、っと言って、サラは俯いた。そしてちらりと、悪戯な視線を上目遣いでグリッソムに寄越した。
グリッソムは思わず咳払いをした。サラが小さく笑うのが見えた。
「他の人の考えは分からないが・・・」
そこでグリッソムは少し言葉を切った。それから真剣な表情で、サラを見つめた。
「私は、避妊を、女性だけの責任にするつもりはないよ」
コンドームが100%の避妊を出来ないことは誰もが知ることだが、避妊ピルも決して100%ではないのだ。もちろん、女性が1時間の狂いもなく飲み忘れなければ、ほぼ100%なのだが、この仕事柄、彼女が毎日同じ時間に飲めているわけではないことには、気付いていた。それに、胃腸の調子が悪ければ、内服薬である以上、その効果は薄れやすい。女性だけの責任としたくないと言ったのには、そういったことを含んでいた。
「1つだけ、聞いてもいいか?」
ふと、グリッソムは素朴な疑問を感じて尋ねた。
「なに?」
「私と付き合い始めたから、飲み始めたのか?」
サラが首を横に振るのを見て、グリッソムは少々意外に思った。
「ずっと飲んでる。彼氏がいるいないに関わらず・・・大学生の頃から」
「そんなに早く?」
グリッソムはかなり驚いて聞き返した。
「最初は、避妊の目的じゃなかったの」
グリッソムの疑惑の表情に気付いて、サラは慌てて言った。
「じゃあ、どうして?」
「あたし、重いの」
「重い?」
「結構、しんどいの」
「・・・ああ」
「ルームメイトだったカレンが、痛みで苦しんでる私に、教えてくれたの。ピル飲めば楽になるよって」
「そういうことも、あるのか・・・」
さすがにそこまでは、さしものグリッソムも知らなかったようだ。サラは静かに微笑んだ。
「紅茶、おかわりいる?」
マグカップを持って立ち上がりながら、サラが聞いた。
「いや、いいよ」
そう言ってグリッソムも立ち上がる。それから少し、何かを言い淀んでソファの後ろに回り込みながら、背もたれに手を滑らせた。
「あー、泊まって、いいか?」
キッチンから戻ってきたサラは、ちらりとグリッソムを見たが、何も言わず前を通り過ぎて、バスルームへ入っていった。
これはOKということだろうか?グリッソムはそろりと歩いて、バスルームを通り、そして寝室へ足を踏み入れた。
もしダメだったら、きっと枕が飛んでくる。顔に当たる枕を覚悟して、グリッソムは一瞬身構えたが、枕が飛んでくる気配はなかった。
片目をうっすら開けて見ると、サラは棚から新しいタオルを取り出しているところだった。
振り向いてグリッソムに気付いたサラは、ふと、腕を組んで彼を見上げた。
「これからは、どうする?」
その口元には楽しげな笑みが浮かんでいた。
「何が?」
グリッソムが聞き返すと、サラはちらりとナイトテーブルに目をやった。
何のことか分かって、グリッソムは小さく息を吐いた。
「もちろん、使うよ」
グリッソムはサラを抱き寄せた。
「君一人に責任を負わせるつもりはないと、言っただろう?」
「そうね」
サラはグリッソムの胸に頬を押し当てた。
「準備が出来てないうちに、事故みたいな形で、そういう状況にはなりたくないんだ」
「分かる。・・・分かってる」
サラはそっと、グリッソムの腰に腕を回した。
「世の中の男が、みんなあなたくらい誠実だったら、不幸な子供は今の半分くらいになるでしょうに」
「化石みたいだろう?」
グリッソムが自虐的に言ったのを、サラは首を振って否定した。
「そんなあなただから、好きなの」
グリッソムは笑みが浮かぶのを抑えられなかった。そしてふと、体を離すと、サラの顔を窺い見た。
「あー、サラ?」
「ん?」
「今日は・・・有りか?」
サラはマジマジとグリッソムを見つめ、それから、声を立てて笑った。
「ええ、いいわ」
「ホント?」
サラはタオルを再び持ち上げると、それをグリッソムに向かって投げつけた。
「ええ、だからシャワーさっさと浴びてきて」
「分かった。急いで浴びてくる」
アタフタとバスルームに入っていくグリッソムに、サラは小さく首を振ったが、その口元は微笑んでいた。
「ちゃんと残ってるか?」
バスルームから、ひょっこり顔を覗かせたグリッソムに、サラは眉を上げた。そして、ニヤリと笑うと、
「いくつ必要?」
誘うような目つきをした。
一瞬驚いたグリッソムだったが、自分の唇に指をあて、それから、指折り、数え始めた。
「ちょっと・・・」
サラは思わず呆れた声を出しかけ、そして、グリッソムの指が数えた「枚数」に目を見張った。
「そんなに!?」
サラの抗議に、グリッソムは仕方なく、指を1つ戻した。
サラは降参とばかりに、両手を上げた。
「・・・覚悟しとく」
ニッと笑って、グリッソムは再び、バスルームに消えた。
呆れたように首を振っていたサラだが、ふと、ナイトテーブルの引き出しを開けると、小さな箱を取り出した。
蓋を開けて、中身を確認する。
・・・足りてしまいそうだ。
溜め息をつきながら、しかし次の瞬間には、サラは笑みを浮かべて、箱をテーブルの上に置くと、ベッドへ入っていった。

************

寝返りを打って、サラの体を抱き寄せようと手をシーツの上に滑らせたグリッソムは、期待と違う感触に、目を開いた。
サラは起き上がって、ヘッドボードに寄りかかりながら、本を読んでいた。
グリッソムをちらりと見て、
「おはよ」
にこりとそういうと、サラはまた本に目を戻した。
グリッソムはもぞもぞと起き上がった。彼女が手にしている少し表紙のよれた本に興味を惹かれ、覗き込んだ。
「随分、年季の入った本だな?小説か?」
タイトルをグリッソムは目で追った。メガネなしでは本文を読むことは不可能に近いが、タイトル程度なら、まだ読めた。
「赤毛のアンか」
「そ」
サラは目線をちらりと上げて、グリッソムを見た。
「読んだことある?」
グリッソムはやや首を傾げた。
「あー、・・・いや。・・・有名なことは知っているが」
「あなたなら女の子向けの小説でも読んでるかと思ってた」
本を足の上におろして、少しからかうようにサラは言った。
「アンという赤毛のそばかすだらけの女の子が主人公だという話、ということしか知らない」
「十分知ってるじゃない」
「いや、知ってるのはそれだけだ」
「他の登場人物とかは?」
「さっぱり分からない」
ふーんと言った後で、サラは突然ニヤニヤし始めた。
「なんだ?」
「あたし、子供の頃、大好きで何度も読んだの。大学時代に何となく全シリーズ集めて。でもすっかり忘れてたの。最近、機会があって読み返したんだけど・・・」
「ふむ」
「凄い発見しちゃって」
「・・・発見?」
グリッソムは枕に左肘を突いて手のひらに頭を乗せ、サラを見上げた。サラはニヤニヤしたまま、俯いていた。
サラは一度唇を軽く舐め、そして話し始めた。
「主人公の少女アンは、学校で・・・あるいじめっ子の男の子と出会うんだけど、結局、仲良くなって、お互いの良き理解者になって、で最終的に結ばれるの」
グリッソムは片方の眉を上げた。
「ふむ、少女小説だな」
「その男の子の名前が、何て言うと思う?」
サラはクスクスと笑いながら、グリッソムに尋ねた。
「さあ・・・」
グリッソムは困ったように肩をすくめた。読んだことが無いのだから、分かるわけが無い。
「ギルバート」
「ん?」
思わずグリッソムが返事をすると、なぜかサラはケタケタと笑った。
「違う。あなたを呼んだんじゃない」
「は?」
「アンが好きになった男の子の名前が、ギルバートって言うの」
グリッソムは少しの間、視線を彷徨わせた。
「・・・どうせ、古くさい名前だよ」
「そういうことを言ってるんじゃなくて」
「じゃあ、なんだ?」
「ただ・・・不思議だなと思って。何か、縁みたいなのを感じるなって、思っただけ」
グリッソムは何て言っていいか分からず、やや首を傾げたまま、そっと右手をサラの太腿に伸ばした。彼が腿を撫でるのには特に何も言わず、
「アンは、孤児で」
ぽつりと、サラが言った。
「間違えてもらわれてくるの。本当は、男の子が欲しかった兄妹のところに、間違えて、送られちゃうの」
グリッソムは僅かに気遣わしげな視線をちらりとサラに投げた。
「間違いだったと知って、でも置いて欲しいって懇願するアンが可哀想で、泣いたなあ」
サラの顔からは笑顔が消えていた。
「皮肉よね。これを繰り返し読んでいた頃、まさか自分も里子に出されるなんて、思ってもいなかった」
「サラ・・・」
グリッソムは口を開きかけたが、太腿の上の彼の手に、サラがそっと手を重ねてきたので、口を閉じた。
グリッソムが優しく彼女の手を握ると、僅かに躊躇った後で、サラも握り返してきた。
「子供の頃・・・」
サラの声に、グリッソムが目を上げると、サラは本を閉じて、その表紙を眺めていた。
「アンの恋をドキドキしながら読んで・・・私にとっての『ギルバート』をいつか見つけるんだって、思ってた」
グリッソムはサラの指を握る力を強めた。
「・・・で、見つけた」
眉を上げてグリッソムが言うと、サラは一瞬マジマジと彼を見つめ返し、そして口角を上げて笑った。
「ええ、見つけた。あたしの、ギルバート」
グリッソムは体を起こし、サラの目を覗き込んだ。
見つめ合ったまま、グリッソムは、サラの手を持ち上げた。
そして、その指先に、そっと口づけた。
サラの唇が、小さく開いて閉じた。僅かな微笑が、震えるように浮かんだ。
もう一度彼女の手を口に引き寄せる。今度は彼女の手のひらに、唇を押しつけた。
サラの唇から、吐息が漏れた。
「ギル・・・」
グリッソムが顔を寄せ、唇を覆うと、サラは両手を彼の首に回した。

『赤毛のアン』が、カバーの上を滑って床へ落ちていった。


FIN.

AN : 私の書く話、サラがずっとうじうじと堂々巡りをしている感が否めないですが、それも多分、これで一区切りです。
この後は、サラの葛藤は少し落ち着いて、ひたすら二人のラブラブを書きたい・・・

例によっておまけが少し続きます。