1.はじまり

焼け付くように太陽の照る7月1日。

某国某所。

傷ついた体の女が一人、体を引きずるように鍾乳洞の中を奥へ奥へと進んでいた。

火の国・木の葉隠れの里の忍、雪野ユキ。

その中でも過酷と言われる暗殺戦術特殊部隊、通称・暗部に所属している。

孤児だったユキは幼い頃から暗部になるための教育を受け、試験に合格し暗部に所属してからは絶え間なく任務をこなしてきた。

周りの者が次々と任務で命を落とす中、自分が生きているのが不思議だと思う。

実際に今回の任務で生き残ったのはユキだけだった。

ユキ達に与えられた任務は某国闇組織の幹部の暗殺。

任務自体は上手くいったのだが退却中に闇組織が雇っていた忍の攻撃を受けた。

敵から身を隠すために逃げ込んだ鍾乳洞は迷宮のように入り組んでいる。

ユキは無我夢中で歩き続けていた。

『……うっ』

ユキは小さく呻いて鍾乳洞の壁に寄りかかって座り込んだ。

ここまでくれば追っ手に追いつかれることもない。

それにこの命も残りわずかだろう。

ゆっくりと目を閉じると水脈が近いのか水の音がかすかに聞こえる。

ひんやりとした地下の空気が心地よい。

こんなに穏やかな最後を迎えられるとは思ってはいなかった。

自分の鼓動が遅くなるのが分かる。

「あら、人間の小娘が私の結界を破って入ってくるなんてねぇ」

突如聞こえた艶やかな声にユキは目を見開いた。

すぐ目の前に花嫁衣裳のような豪華な着物を着た女がひとり立っていた。

誰だろう?

この世の者とは思えない程美しい女がコロコロと笑っているのを見つめる。

気配に気づかずにこんなに近くまで来られたのは初めて。

それに、いつの間にかユキと女の周りだけが淡い光で包まれていた。

「見たところ木の葉隠れの忍のようだねぇ」

黄色い目を細めてユキの顔を覗き込んだ女は一瞬黄色い目を大きく見開いた。

「驚いた。もう二度と会うことはないと……偶然かそれとも……」

そう呟き、女は足音一つ立てずに近づいてきてユキの右肩にある暗部の印にツッと指を這わせた。

ビリビリとした感覚が暗部の刺青に走り、見たことのない模様に変わっていく。

力尽きているユキは抵抗できずに女を見ることしかできない。

こんな術見たことない……

「そんなに怖い顔をしないでおくれよ。あんたに頼みがあるのさ」

機嫌よさそうにコロコロと笑っている女をキッと睨む。

こんな得体の知れない者の頼みなんてロクなものじゃない。

ユキは顔を強ばらせた。

「もし、私の頼みを聞いてくれたらお前の命を助けてやろう。どうだい?」

『断る……。私は、里の……命令に、しか……従わない』

ユキにとっては当たりまえの言葉。

しかし女はユキの言葉に驚いたようで目を見開いた。

そして再び鈴を転がすように笑い、ユキの頭をそっと撫でた。

一瞬にしてユキの傷口が塞がり体に力が戻る。だが、体は金縛りにあったように動かない。

一体目の前の者は何者なのか。

人間の力をはるかに超えた力を見せられ、ユキの背中に冷たい汗が流れる。

『あなたは……何者……?』

やっと出せた声はかすれて震えていた。

どんなに危険な任務でも幼い頃から感情を殺すように訓練されてきたユキは恐れを感じることがなかった。

しかし今は目の前にいる得体の知れない女に恐怖を感じる。この者は何者なのか……。

「私の名は妲己」

女の言葉にユキは自分の耳を疑った。

九尾の大妖、妲己。傾国の美女。

豪華な妲己の着物から九本の尾が揺れている。

「お前に選択肢はないのだ、人間の小娘」

先程とは違い、妲己は黄色い瞳をぎらつかせ、冷たい声で言い放つ。

腕につけられた刺青が熱くなり、ユキは歯を食いしばった。

「お願いっていうのは簡単なんだよ。昔、好いた男がいてね、その人に手紙を渡してほしいのさ」

妖艶に微笑む妲己。

魂を差し出せとか言われるかと思っていたのに……。

妲己は眉を顰めているユキに語りだす。

「あちこちと遊び歩いていた若い頃、遥か西の地でサラザール・スリザリンという男と恋仲になったのさ。でも、急にこっちへ帰ってこなくちゃいけなくなってね。泣く泣く別れたってわけ」

『はぁ……』

「その男は仲間と共に"ほぐわぁつ"という国を作ると言っていた……私も見てみたかった。でも、私はこの地を離れるわけには行かない。一族を守らないといけないから」

妲己が悲しそうな顔をして手を広げるとニ人を包んでいた光が広がっていく。

ユキは息を飲んだ。

鍾乳洞には何千匹もの狐がいて、目をギラつかせて睨みつけていたからだ。

「私はあの男を今でも愛しているのだ。でも会えない。だから、せめて思いを綴った手紙だけでも届けて欲しい」

『手紙くらい自分で……それに"ほぐわぁつ"なんて国、聞いたことがない』

「会えない理由があるんだよ小娘!" ほぐわぁつ"へは私が運んでやろう。"ほぐわぁつ"の国に行くのは一年後。そなたにつけた印が"ほぐわぁつ"に運ぶ」

突拍子もない話で 何を聞いたらいいか分からない。

戸惑うユキをよそに妲己はご満悦の様子だ。

「そうじゃ、そなたに贈り物をしてやろう。私からの礼じゃ」

にこにこ笑いながら近づいてきた。

嫌な予感しかしない。

『いりませ、っぐ』

拒否の言葉を遮って強引に頭をわし掴みにした妲己の歌うような呪文が聞こえてくる。

途端にユキの頭に映像が流れ込んできた。

初めは焼けただれた顔の男。

墓場のような場所で少年が緑の閃光に倒れる姿。

次々と切り替わる場面。

大きな鏡のような物の中に吸い込まれるように消えた男。

『これは、何です……?』

塔から落ちる老人の姿。

メガネの少年の目を見つめながら息絶える黒服の男……。

どうしてそんな目を?

黒服の男の瞳の色にユキの胸が一瞬苦しくなった。

映像は流れ続ける。

『なによこれ……」

子供から大人まで、何人もの死に行く姿をみせられたユキは困惑して妲己を見た。

「この者たちはそなたが未来に出会い関わりをもつ者の最後の姿。今見せた者の中から……そう、五人にしよう。救えればそなたの願いを一つ叶えてやろう」

『余計なことを……関わりって、私はすぐ帰れないの!?』

「あら。帰れなくたっていいじゃない」

『そういうわけにはいかない!』

「じゃあ、五人助けることね」

命を弄ぶ妲己に腹が立つ。

そもそも、こんな一方的な願いを聞き入れる気はない。

しかし、ユキは口を開く前に強い光に包まれていた。

鍾乳洞の中

「怒った顔があの男にそっくりじゃないか」

ユキが消えた場所を見つめたまま静かに佇む妲己。

その呟きは狐の鳴き声に消され誰にも聞かれることはなかった。

***

次に見えたのは鍾乳洞の壁ではなく見たことのある風景。

気が付くと里のすぐ近くの野原に立っていた。

狐につままれた、とはこういう事を言うのか。

大きく大きくため息をつく。

『どうしてこうなったのよ』

いつの間にか足元にあった巻物を手に取り空を見上げる。

そして、もう一度大きくため息をつき、里の門へと歩き出す。

今までの日常が全て変わった。そんな予感を胸に抱きながら……。

里に戻ったユキは報告のために木の葉隠れの里の長である火影の元に向かった。

「話は分かった」

全てを聴き終わった火影は大きく息を吐き眉間を揉んでいる。

「"ほぐわぁつ"なんて国は聞いたことがないな。だが、妲己程の大妖が言うならあるのだろう……。"ほぐわぁつ"については出来るだけ調べてみる」

『ありがとうございます、綱手様。それで、私にかけられた呪いは解くことは出来ませんか?』

ダメもとだが火影様なら知っているかもと聞いてみる。

しかし、残念ながら彼女も知らないようで難しい顔で顔を横に振っている。

「残念ながら呪いを解くことは無理だろう。妲己のような妖の力は相当に強い。無理に呪いを解こうとすれば雪野だけでなく、呪いを解こうとした者も危険だ」

里に帰るには"人助け"をして妲己に頼むしかないのか。

命じられたままに任務をこなしていた毎日が終わった。

"ほぐわぁつ"の国へ行ったら未知の国で自分は何をするのか。

眉間に皺を寄せ、大きく息を吐いたユキを見て火影は笑った。

「雪野、私は今回のことがお前にとって良い機会だと思っている」

『良い機会、ですか?』

「そうだ。私は今回のことがなくても雪野を暗部から除隊させるつもりだった。里を維持するために暗部は必要だ。だが、感情を持たないように訓練され、自分の全てを犠牲にして生きることには反対だ」

『そんな!私は、私は……』

ユキは言葉が続かなかった。

生まれ育った暗部から離れる自分を想像できない。

自分の感情を持つことがとても恐ろしいように感じられる。

火影はそんなユキの姿を見てそっと抱きしめた。

『火影様……」

「新しい世界で、本当の自分を、自分にとって大切なものを見つけるのだ。雪野の忍としての力や知識は里の中でも秀でている。しかし、人は何かを守りたいと思った時に本当の強さを手に入れられるのだから」

『守りたいもの……本当の強さですか?』

「そうだ」

『でも……』

任務で血に染まりきったこの手。

自分には幸せな人生を歩める資格などないように思える。

「私はね、幸せになっちゃいけない人間なんていないと思うんだよ」

火影はユキの心を見透かしたように言い、頭を豪快にわしわしと撫でた。

「今日から生まれ変わったと思って、新しい世界で思いっきり楽しんで来い!」

この人の明るく豪快な人柄が好きだ。

火影の言葉を聞いたユキの心の中にあたたかい風が流れ込む。

私も生まれ変わりたい。

一度でいい。

自分らしく生きてみたい

今まで押さえつけていた欲求が知らずと弾けていった。

***

ユキは暗部の除隊を命じられ、街中で暮らすことになった。

殺伐とした暗部の寮で暮らしてきたため、賑やかな街の雰囲気に不安と戸惑いばかりだった。

しかし、どうあがいても"ほぐわぁつ"へ行くことは変わらない。

ユキは腹をくくって準備をすることにした。

日中は鍛錬や勉強をして過ごす。

火影に命じられたユキと同じ年くらいの忍や元暗部の友人サイがちょくちょく訪ねてきてくれた。

幼い頃から暗部で育ったユキは自分の意思を持つなと言われ育ってきたため 、コミュニケーション能力が欠乏していた。

友人たちの会話の中で、正直に口に出した言葉で怒られたり、呆れられたり。

それでも、段々と友人たちからは「ましになった」と言われるくらいになってきていた。

『……もうすぐだ』

ユキ自身も自分の心の変化に戸惑いながらも喜んだ。

同世代の友人とゆっくり話したり、技を教えあったり、勉強したりするのは新鮮で楽しい。

ユキは"ほぐわぁつ"へ行くことに不安を持ちながら、念入りに出発の準備を進めていった。