木枯らしが台所の窓をカタカタと揺らしている。磨りガラスの向こうは、どんよりと曇った灰色の空だ。狭い台所で動くたびに足元の木板がギシリと軋む。スリッパを通して冷気が足の裏に伝わってくる。 「うー冷えてきたなぁ」 手を擦り合わせながら思わず漏らすと、 「寒いですか?鷹村さん。だから火燵に入っててくださいって言ったのに」 おたまを片手に一歩がオレを振り返った。台所の冷気とガスレンジの熱気に頬を上気させた一歩は、土鍋に煮干しを入れながら呟く。そうは言っても、今日はこいつの誕生日だ。そうとは告げずに飯を食いに来たが、本来、祝う立場にあるはずのオレが火燵に入って待っているわけにもいくまい。オレは上着を居間に置いてきたことを後悔しながら、極寒の台所で身を震わせていた。 「あ、そうだ。あれ、まだあるのかな」 ちょっと待っててくださいね、と一歩が言い置いて、台所を出て行く。残されたオレは大人しく、鍋が噴きこぼれないようにガスの火を眺めていた。 「母さーん!鷹村さん寒いって。なにか羽織るもの……」 一歩がお袋さんを呼ぶ声が聞こえてくる。ちくしょう。なんかオレが寒がりのガキみたいな扱いじゃねえか。まあ、実際、寒いっちゃあ寒いんだが。 古い日本家屋のこの家は、どうしたって冬は寒い。玄関の三和土から忍び込んだ冷気がだだっ広い廊下を通って、それぞれの部屋に忍び込んでくる。立て付けの悪い古い部屋は、いくらきっちり扉を閉めたつもりでも、僅かな隙間から暖気が外に漏れ出てゆく。オレは、あらゆる部屋に床暖房が備えられた実家のマンションを思い浮かべた。 母親の趣味だったのかなんだか知らないが、華美な装飾の施された玄関口から、分厚い絨毯の敷き詰められた廊下、悪趣味なシャンデリア、大理石でできた柱。瀟洒な造りの広大な住居は外気温に左右されることのない快適な温度を常に保ってはいたが、オレにとっては寒々しいことこの上なかった。ちなみに、あの柱にはオレが家を飛び出したときに蹴り上げて出来た傷が残っている筈だ。あの傷跡を見て、親父とお袋は今何を考えているのだろう。少しは何か思うところがあっただろうか。それとも、家を出て行った次男坊のことなど思い出すことはないだろうか。 まあ、いまさらそんなことはどうでもいい。ともかく、ここは暖かい。寒いのか暖かいのかどっちなんだ、という話だが、結論から言うとやっぱり暖かい。廊下の柱に刻まれた一人息子の成長の記録も、あちこちの家具にうっすらと残るキャラクターもののシールの跡も、年季の入った旧式の風呂釜も、台所の入り口の「珠のれん」(あのジャラジャラとぶら下がっているやつだ)も、白と青のタイルが埋められている炊事場も、どれもいつもオレの心をじんわりと温めてくれる。そう、この家は火燵みたいなところだ。オレはそんなことをぼんやりと考えながら、ガスの火で両手を炙っていた。 「鷹村さん!お待たせしました。良かったらこれをどうぞ」 なにかもっさりとしたものを手に掲げて、一歩が戻ってきた。 「あの、父さんのものなんですけど。ちゃんと外で干してあるので大丈夫です」 それは、濃紺の褞袍だった。ほら、という風に広げて見せられては、そこに袖を通さないわけにはいかないだろう。オレは、一歩に背中を向けるようにして、掲げられた褞袍に腕を突っ込んだ。一歩が、ぐい、と褞袍を押し上げてオレに着せかけてくれる。途端に、オレは乾いた太陽の匂いと、なんとも言えない温さに包まれた。 「あー……なんか悪いな」 「いいえ!父さんのお古ですみません。やっぱりここにもストーブ出さなきゃですね。もう少し先でいいかなって思ってたんですけど、夕方になるとやっぱり冷えますね」 そう言いながら、一歩は土鍋に干し昆布を入れた。 「あら、似合うじゃない」 背後から声がかかる。一歩の母親だ。 「悪いな、母ちゃん」 「いいのよ。うちは、ホラ、寒いから。今どき、若い人はそんなもの着ないかもしれないけどなかなかいいものなのよ。でも、やっぱり袖が足りなかったわね」 そう言いながら、一歩の母親はくすくす笑った。たしかに袖口からは、オレのセーターがかなり覗いている。 「父さんと鷹村さんじゃ、やっぱり背の高さが全然違うもの」 「そうねえ。今度、鷹村くん用に大きめのものを買っておくわ」 それじゃ、母さん行ってくるわね。うん、気をつけて。鷹村くん、ゆっくりしていってね。 ニコニコと笑いながら、一歩の母親は出かけていった。今夜は婦人会の集まりがあるらしい。そして、その息子はと言えば、真剣な顔つきで出汁を取っている。 『今夜、鍋でも食べに来ませんか?母さんが留守にするので、ボク一人になるんです』 数時間前にジムで声をかけられたとき、オレは一も二も無く承諾した。どうせ夕飯と言えば、青木んところのラーメンか、家で侘びしく啜るカップ麺かの二択だったから、オレは喜んで食い物に釣られたってわけだ。なにしろ、この家は暖かいし、幕之内家の飯はいつも間違いなく美味かった。それに、繰り返すが、今日はこいつの誕生日だ。息子の誕生日だっていうのに出かけるお袋さんもお袋さんだが、こいつもこいつだ。自分の誕生日を忘れているのかどうなのか、いつもと変わらない口調で、オレを飯に誘いやがった。オレはそのことに少々呆れながらも、内心で「これもついでだ」と自分に言い聞かせ、頷いた。 「お前、料理なんか出来たんだな」 一歩の肩越しに、その手元を覗き込む。まな板の上でリズミカルに包丁が動き、野菜が次々に処理されていく。白菜、きのこ数種類、人参、大根、春菊、水菜。 「うーん、どうなんでしょう。簡単なものしか作れませんよ、ボク。それに鍋ってとりあえず、具材を切ったらいいだけなので」 いやいや、それでもたいしたものだ。オレは褞袍に首を埋めるようにして、一歩の手元を眺めていた。さて、どう切りだしたものか。玄関先に置いたあるもののことが、ずっとオレの頭の中にあった。 今日は海鮮鍋にしましょう。鷹村さん、海鮮は好きですか?あ、もちろん肉もありますよ。鶏肉とつみれを入れましょうね。 セーターを肘まで捲り上げて、一歩が魚を捌いていく。なんでも今朝獲れたばかりの新鮮なものらしい。 鱗を取り、皮を剥ぎ、内臓を出す。一歩が包丁を動かすたびに、剥き出しの腕に筋肉の陰翳が踊る。オレは息を詰めてその作業を見守った。体格の割りに太い手首、筋の浮き出た腕周りは生まれつきのものもあるが、家業の手伝いと厳しい鍛錬の賜物だ。 ぶつ切りにした魚をザルに入れて洗う。アラの部分は汁物にするらしい。魚に塩を振りかける手つきが手慣れていて、オレの胸は思わず高鳴った。テキパキと手を動かす後輩の横顔をオレはこっそりと盗み見る。 いつもへにゃりと下がった眉尻が、今日に限って妙に凛々しく思えるのはなんでだろうか。妙に男くさい一歩の横顔に、オレはなんだか居心地が悪くなって、思わず咳払いをした。 「どうかしましたか?」 「いや……うめえモンだなと思ってよ」 「まあ、慣れてますからね。魚を捌くのは」 「たいしたモンだよ。感心するぜ」 「そんなぁ……誉めても何も出ませんよ」 笑いながら、一歩が蛇口をひねる。冷たい水にさらされた手は、腫れたように赤みを帯びていた。オレはそれを見つめながら、 「……なあ、マグロとかも捌けんのか?」 とさり気なく、尋ねてみる。 「マグロですか……どうでしょうねえ。あれはウチの船では釣れないものですし、ボクも丸ごとっていうのは触ったことがないですねえ。それに、専用の包丁が必要ですから。でも、一度くらいは捌いてみたいですね。ちょっとした夢だったりします」 「え?!おまえ、捌けないのか?」 オレは思わず大きな声を出してしまった。じゃあ、オレの数日前からの苦労は一体全体何だったというんだ。これじゃあ全くの水の泡じゃねえか。いや、海の泡か?マグロだけに。 「え、どうしたんですか?鷹村さん……」 急に黙り込んだオレを見て、一歩が怪訝そうな顔をする。オレは黙って、その顔をじっと見返した。すると、一歩の顔に面白い変化が現れた。ぎゅっと寄せらていた眉根がゆっくりと解け、続いて目がまんまるに見開かれる。そして、唇が何度か開いたり閉まったりしながら震え、ついにそれがぽかんと大きく開かれた。 「え、え……も、もしかして、鷹村さん?」 「うん」 「え、え?ほ、ほん、とですか?」 「おう」 「冗談じゃ、」 「ないぞ。外に置いてある」 「えっ!う、そ……ええっ!」 「うるせえ!でけえ声出すな!」 すみません!と反射的に頭を抱える一歩に、ついてこい、と言い置いて、オレはずかずかと台所を後にした。うしろから、ドタドタと一歩が小走りについてくる。 玄関の引き戸を開けるのももどかしく、一歩がオレの脇から頭を突き出すようにして首を伸ばす。一歩の視線は、門扉脇に置かれた大きなトロ箱をすぐに捉えた。 さあ、しかと刮目せよ。これがオレさまの「ついで」だ。つまり、あれだ。まあ、いわゆる誕生日プレゼントってやつだ。 「う、わ……開けてみていいですか?」 一歩が頬を真っ赤に紅潮させて、トロ箱の蓋に手をかける。オレはそれに鷹揚に頷いてみせた。 「よいしょっと……うわあ!」 蓋を開けた一歩が息を飲む。つやつやと黒くテカる魚体が美しいマグロが、静かに氷の棺のなかで眠っていた。 「……こ、これ、どこで手に入れたんです?クロマグロじゃないですか!」 「ああ?クロマグロだと?オレはホンモノのマグロを寄越せって言ったんだ。あの親父、まさか偽物掴ませたんじゃねえだろうな」 焦るオレの声は自然と怒気を孕む。築地に行けば、マグロの一匹や二匹そこいらに転がっているだろうと、オレは高をくくっていた。だが、一般人には売らないと敢えなく追い返され、腹の虫の治まらなかったオレはありとあらゆるツテを使って(半ば腕力にモノを言わせて)、なんとかこのマグロをまるごと一匹手に入れることに成功したのだ。 「いや、ですから、本マグロですよ。これ。ほら、胸びれが短いでしょう?これが特徴です。あと、見た目が黒いからクロマグロとも言うんです。いやあ、ボク、てっきりメジだと思ったなぁ。これ、50……いやもっとあるんじゃないですか?鷹村さん、これどうやって……とんでもなく高かったはずですけど……まさか」 「ちゃんと金は払ったぜ」 何を想像したのか知らないが、さっきまで喜色に溢れていた一歩の顔が一瞬で曇ったのを見て、オレは憤慨とともに猛然と抗議した。あの競り屋の親父に、オレが諭吉を何人(正確には何十人だ)払ったのか聞いたら、こいつ、目ぇ回すぜ。 ここまでどうやって持ってきたんですか、の問いに、オレは担いで来た、と答えた。たしかにクソほど重たいトロ箱を背負い(もちろん氷を詰めているからさらに重い)、魚の匂いをあたりにぷんぷんと撒き散らしながら、人々の好奇の目に晒されて、ここまでやってきたのだ。おかげで背中がバッキバキだぜ。 そう告げると、一歩が俯いて黙り込んだ。その沈黙が不気味で、オレは思わずその横顔から目を逸らした。玄関脇の小さな庭を眺める。よく手入れされた小さなスペースには、いくつかの植物が植えられていた。赤い実をつけたあれはなんていうんだっけ。 「おい、オレになんか言うことはないのか」 乱暴な口調になってしまったことはどうか許してほしい。オレだって、慣れない行為に必死こいて恥を忍んで、今日のこの瞬間を迎えたのだ。 「……ないです」 小さい声がオレの鼓膜を震わせる。 「……てめえ」 思った以上にドスの効いた声がオレの唇から零れ落ちた。頭にふつふつと血が上るのがわかる。込みあげてくる怒りのままに拳を振り上げようとしたオレの耳は、グズ、と鼻を啜る音を捉えた。 「嬉しすぎて……言葉が、見つかりません」 振り上げたオレの拳は行き場を失って、冬の夕闇を虚しく掴む。 「これ、ボクのために用意してくれたんですよね」 俯いてグズグズと鼻を鳴らす一歩に、オレはそっぽを向いたまま、下唇を突き出した。 「あー……まあ、今日はおまえの……た、んじょ、うび、だろ」 尻すぼみに消えた言葉はそれでもちゃんと届いたようだった。 「……覚えててくれたんですね」 「当たり前だろ」 無意識のうちにオレの両手は上着のポケットを探る。が、見つからない。それもそうだ。上着は一歩の家の居間に置いてきたし、オレが今羽織っているのは、つんつるてんの褞袍だった。クソったれが。ああ、そうだ。あの赤い実をつけたやつは南天だ。今、思い出した。 「おい、運ぶぞ。ここ、寒ぃんだよ」 屈み込んだケツを蹴り上げると、痛いなぁ、とぼやきながらも、目元を洋服の袖口で拭った一歩がオレを振り返って、笑った。 「鷹村さん!ありがとうございます!ボク、凄く嬉しいです」 「……おう」 オレはなんと返していいかわからずに、庭先の赤い実を数えていた。 それからオレたちはトロ箱を抱え上げて、台所へ運び込んだ。一歩は、包丁を借りてくると言い置いて、家を飛び出して行った。オレは、仕方なくガスの火を点けて両手を炙る。台所はあいかわらずクソ寒かったが、それでもオレの腹の底はポワポワと温かかった。 「お待たせしました!上手くいくかわかりませんが、捌いてみましょう!」 足音煩く駆け込んできた一歩が、くるまれた布からやたらと大きい刃物を取り出す。 「なんだよ、それ」 「これですか?マグロを捌く用の包丁です。ボクも扱うのは始めてなんですけど、知り合いの漁師さんから借りてきました。出刃包丁でもいいかなと思ったんですけど、こんな大物、中にまで刃が届かないと思うんです」 当然、流し台にマグロは置けないので、オレたちは台所のテーブルの上を空けて、そこにブルーシートを敷いた。一般家庭のまな板なんか、とてもじゃないが追いつかない。なんなら、このテーブルからもはみ出しそうなほどの大きさだ。実際に、マグロの重みを受けて、古びたテーブルがギシギシいっている。 「では、胸びれと背びれを落としたら……まずしっぽを落とします。この部分は、テールという部位でこれは煮込むと美味しいんですよ」 軍手をはめた一歩が、勢いよく尾の部分を切り落とす。ちなみに、これはのこぎりだ。とてもじゃないが、食材を切っているとは思えない。 「次に、頭です。えらのところから、こう……んしょっと」 ごりごりと力を込めてのこぎりを引いていく。 「ほほ肉と脳天は一番美味しいところだって言われたりもするんですよ」 「大トロとかじゃなくてか?」 「ええ、あまり取れないところなので、人によっては大トロより好まれることもありますねえ」 続いて、背と腹を分ける作業に移る。のこぎりで背と腹におおまかに切り目を入れて、包丁を取り替え、丁寧に背中から開いていく。 「いやあ、ボク、こんな大物捌くの初めてですよ!そもそも切り身でも、高級魚だから手に入らないですしね。うわあ、鷹村さん、見てくださいよ!この断面!肉がこんなに分厚いですよ!」 包丁を布巾で拭いながら、一歩がはしゃぎ声を上げる。そうか、そんなに気に入ったか。大枚をはたいた甲斐があったというモンだぜ。オレは自分の胸が温かいもので満たされていくのを感じていた。 一歩が息を詰めながら、慎重に刃を入れていく。徐々に大きくなる割れ目から、濃い薔薇色の肉が顔を覗かせ始めた。白い脂が散った分厚い肉だ。 「よし!じゃ、いよいよ、これの出番です!ボク、触るのも初めてだ。上手くいくかな」 そう言いながら、一歩が例の長刀を取り上げた。 「鷹村さん、すみませんけど、しっぽのほうを押さえてて貰えますか?」 一歩がキラキラした目でオレを見上げてくる。なんでオレさまが。と言いかけて、オレはそれをぐっと飲み込んだ。オレは出会ったときから、なぜだかコイツの大きな目に弱い。 「……これでいいのかよ」 「そうです!お願いします」 オレは軍手をはめて、マグロの尾のほうを両手で押さえる。一歩が身長の半分はあろうかというマグロ包丁を腹みの下にあてがい、深呼吸をした。 「では、鷹村さん。包丁の先を軽く持ってください。今、肉が背骨とくっついている状態なので、二人でこの包丁を動かして、切り離していきます。ボクが動かすので、鷹村さんは軽く握っていてくださいね」 僅かに体を傾けながら一歩が包丁の柄を握り締める。オレは言われたとおり、布巾でくるんだ包丁の先端を掴んだ。 「いきます。ボクの動きに合わせて、軽く押したり引いたりしてください。力はほとんど要りません。いきますよ。では」 一歩が真剣な顔で、ぐ、と包丁を押し込んだ。オレはそれに合わせて、包丁の先が浮きすぎないように押さえながら、刃を掴んだ手を手前に引き寄せた。今度は、一歩が包丁を引く。オレは向こうに包丁を押しやる。ごり、ごり、と刃が背骨に擦れる音が何度かしたのち、急に抵抗が消失した。 「よし!オッケーです!切り離せました!」 一歩が高らかに宣言する。手を離していいと言われ、オレは自分がいつのまにか緊張していたことに気がついた。 「ここを、こうやって……ほら!見てください!凄い!」 マグロ包丁を置いた一歩が、切り離した半身を抱えるようにして持ち上げる。くるり、と裏返ったそれは、もう圧巻だった。固く締まった深紅の肉が空気に触れて、更にその 鮮やかさを増していく。 それからオレたちは力を合わせて、マグロ包丁を引き、マグロを五枚に下ろした。バラしたマグロは置き場所がなくて、台所の床にブルーシートを敷いて並べる。背身と腹身とが二つずつ。そしてまだ若干、身がこびりついた中骨。置物にしたらいいんじゃないかってくらいにデカイ頭部分と、一番最初に切り落とした尾びれ。圧倒的な光景に、オレたちは子どものように声を上げてはしゃいだ。 「おい!すげえな!どれが大トロだ!寿司何人前作れるんだ?これ。ありったけ食ってやる!」 「ここが大トロです。ハラカミとも言います。この上の部分は繊維があまりなくてとても食べやすいんですよ」 腹身をさらに切り分けながら、一歩が興奮した口調でしゃべり続ける。血合いを取り除き、柵取りをするその手つきをオレは食い入るように見つめていた。次々と披露される豊富な知識もさることながら、初めてとは思えない堂々たる包丁捌きに、オレは次第に頭がぼうっとしてきた。 オレの眼前でマグロが、スーパーでよく見る短冊の形になり、あとは一口大に切って皿に盛れば、刺身の出来上がりだ。一歩が包丁を拭いながら、弾んだ声を上げる。 「いやあ、ホントに貴重な体験でした。鷹村さんのおかげで父さんにいい報告ができます。ボクの父さんはマグロ漁船に乗ってたこともあるんですよ。ほんのちょっとの時期だったらしいんですけど」 オレはそれを聞いて思わず息が詰まった。この家を訪れるたびに、居間に置かれた写真立てのなかで、若い男が白い歯を見せて笑っている。一歩とよく似たその顔は、いつまでも歳を取ることはない。オレはなんとも言えない申し訳なさと、後ろめたさに襲われて、頭をがしがしとかいた。 一方、本日の主役は呑気に鼻歌を歌いながら、薄桃色の魚肉に包丁を入れている。 「……まあ、オレからもよろしく言っておいてくれ」 そう呟くと、まな板のうえに屈み込んでいた一歩が、え、とオレを見上げた。オレは慌てて、 「なんでもねえ!」 と怒鳴る。その瞬間、オレの腹が盛大な音を立てた。すると、一歩は破顔という表現がぴったりなほど顔を綻ばせて、 「お腹空きました?もう少しですよ」 そう言ってオレを振り仰ぐ一歩の顔に、オレはもう限界だった。なんて顔でオレを見やがるんだ。寒さで腫らしたような頬に緩やかな笑みを浮かべて、目尻に小皺なんか作って、縁側に降り注ぐ冬の日の暖かさそのもので、一歩はオレを見つめる。幼い日に繋いだ手の温もりのような郷愁が、オレの胸にどっと押し寄せてきた。 無言でその顎を掴み上げると、驚いた一歩が包丁を取り落とした。包丁がシンクに跳ねて、鈍い音を立てる。 「んっ!」 歯がぶつからんばかりの勢いでその口元に噛みつくと、一瞬だけ一歩の身体が強張った。オレは目を開けたまま、一歩の唇を貪る。 「ん、あっ」 ふうふうと互いの鼻息が、互いの頬の産毛を揺らす。至近距離で見つめる後輩の瞳が、とろりと濃さを増して、ゆっくりと閉じられた。途端に、オレの胴がギリギリと締め上げられた。いつの間にか背中に回されていた太い腕の仕業だ。 ----ちくしょう! オレは負けじと、一歩の唇を割り開き、その喉の奥目がけて舌を差し入れる。歯列を舐めあげて、舌を吸い上げると、カッと一歩の目が大きく見開いた。ふう、ふう、と鼻息を荒げて、一歩がオレの身体を締めつける。 睫毛が触れ合うような距離で、しかと視線を合わせたまま、オレたちは獣じみたキスを交わし合う。バチバチと火花が飛び散るような激しいヤツを、だ。 やがて、オレの息が続かなくなり(ギリギリと胴体を締めつけてくる後輩の所為だが)、甚だ不本意なことだが、オレは唇をくっつけたまま仕方なく、ギブだ、と喚いた。なのに、一歩の野郎、最後にトドメだと言わんばかりに、オレの口腔内に残った僅かな酸素を吸い上げて、それからようやく唇を離しやがった。 「っぷはっ!て……てめ、えっ!」 ぜえぜえ言いながら、その場でよろめくオレに、勝ち誇ったような顔で一歩が言い放つ。 「ホントにお腹空いてたんですね」 うるせえ。馬鹿野郎。てめえが全部悪いんだろうが。てめえがそんな腕を剥き出しにして、魚なんか捌かなきゃ、オレさまがくらりとくることもなかったんだ。なんだよ、そのぶっとい血管は。オレはさっきからその親指の付け根に浮かび上がる青白い血管に食らいつきたくって仕方がないんだよ。全部、てめえが悪い。 そんなことを思いながら唇を拭うオレの頬に、一歩の人指し指がすっと伸びてくる。 「……続きは、鍋を食べてからにしましょうね」 触れるだけの指はあっという間に遠ざかり、オレの鼻腔に磯の香りだけを残していった。くるりと向き直った後輩は、ふんふんと鼻歌を歌いながら、何ごともなかったかのように料理を続ける。 もっさりとした褞袍を羽織った間抜けなオレは激情の大波にきりきりと揉まれながら、さながら浜辺に打ち上げられた魚のごとく、虚しく口を開けたり閉じたりするよりほかはなかった。

おまけ

居間の火燵の上に並べられた数々の料理は、まさに圧巻だった。海鮮鍋に、マグロの刺身。もちろん大トロ中トロ赤身全ての部位が大皿に盛られている。その薔薇色に輝く宝石のような切り身をオレたちはうっとりと眺めた。カマは塩を軽く振って焼き、ゆずを絞ってぶちかける。海鮮鍋とは別に、小さな一人用の鍋にマグロとぶつ切りにしたネギを放り込んだマグロ鍋も用意した。柚子の皮を刻んで入れたカブの酢漬けは、母ちゃんのお手製だ。 マグロの白子は軽く炙って塩を振った。胃袋は串焼きに、心臓は衣をつけて揚げた。そんな部位まで食うのかとオレは感心しきりだったが、一歩はそんなオレの反応がイチイチ面白かったようだ。 背骨にこびりついた中落ちを匙でこそげ取って食うのが美味いのだ、と、一歩が顔を綻ばせる。 「中落ちは鮮度が一番大事なんです。まずはここから食べてみませんか?」 差し出されたスプーンを掴み、あばらに残った身をごりごりと削いでいく。まずは、そのまま。口に入れた途端に、ふわりとマグロの香りが漂う。美味い。とにかく、美味い。醤油もわさびも何もつけていないのに、この味わいはなんだ。 「どうですか?」 心配そうな顔の後輩に、 「美味い!」 と頷くと、目を細めて一歩が笑った。 「良かったです!稀少部位なので食べられる機会は滅多にないですから。さあ、どんどん食べましょう!」 それからオレたちは競うように、マグロを頬張った。薬味もたくさんある。大葉、わさび、生姜、ネギ、にんにく、もみじ下ろし、たまねぎ。 大トロ、中トロは言うに及ばず、赤身までもが美味かった。冷蔵庫にはまだまだ残っているから、明日もマグロ三昧だ。母ちゃんにも食わせてやりたい。 マグロ鍋も美味かった。ごま油と生姜の利いた出汁がいくらでも食欲をそそる。しめには湯がいた蕎麦を放り込んで啜った。 一歩の作った海鮮鍋の汁の一滴まで残さず平らげて、オレたちはぽっこりと突き出た腹をさすりながら、深い満足のため息を吐いた。 「おー食った食った。腹がはち切れそうだぜ」 「美味しかったですねえ。ボク、幸せです」 火燵の上に顎を乗せた一歩が蕩けるような表情を浮かべる。それを眺めるオレの頬も、うっかり気を抜くと、だらしなく緩みそうだった。 「そりゃ良かったな」 「あ、そうだ。ケーキがあるんですよ」 上体を起こした一歩がはにかみながら、オレをチラチラ見てくる。 「母ちゃんが買ってきたのか?」 「ハイ。ボクは要らないって言ったんですけど、どうしてもって」 そりゃそうだろう。二十も半ばを過ぎたとは言え、母ちゃんにとって息子はいつまでも小さい息子のままだ。 「なら食おうぜ。持ってこいよ」 「いいんですか?わあ、嬉しいなあ」 本当は吐きそうなくらい満腹だったが、特別な日を締めくくるケーキを食わないわけにはいかないだろう。わたわたと火燵の上を片付け始める一歩を他所に、オレはごろりと横に転がった。 寝転がったオレの視界に、例の写真が飛び込んでくる。若い男が片手で小さい一歩を抱き上げて、海を背にして笑っている。その日に焼けた顔を見ながら、オレは一人呟いた。 ----そうかい。わかったよ 「鷹村さん!ケーキ持ってきました!」 一歩が両手に大皿を捧げて、部屋に入ってくる。 「おう」 起き上がったオレの前には、白い皿に乗ったホールケーキが鎮座していた。クリームで飾られたスポンジの上に、赤いイチゴがずらりと並んでいる。正当派の誕生日ケーキだ。チョコレートで出来たプレートには、『誕生日おめでとう。一歩くん』と書かれている。 「じゃあ、切り分けますね」 「おい。ロウソクは立てねえのかよ」 「え、あ、い、いえ。ロウソクは……いいです」 「なんでだよ」 「なんだか恥ずかしくて……」 まあ、気持ちはわからなくもない。オレが一歩の立場だとして、歌なんか歌われたときには、青木村を半殺しにするくらいじゃ済まないだろう。 「じゃ、切れよ。でっかくな」 「はい」 オレの前に、大きな一切れが置かれる。例のプレート付きだ。こいつ、本当に誰の誕生日かわかってるのか。小皿に載せられたケーキを前に、一歩が律儀に手を合わせる。 「いただきます」 そう言ってフォークを突き立てようとした一歩をオレは制した。 「ちょっと待て」 「え?なんですか?」 何かを警戒したような一歩の顔が可笑しくて、オレは吹き出しそうになるのを堪えながら、真面目な顔でプレートを摘み上げた。 それを、そっと一歩のケーキに突き刺す。 「誕生日、おめでとう」 しかつめらしくそう言うと、一歩が信じられないというような表情を浮かべた。オレが誰かを祝うなんて思ってもみなかったのだろうか。たしかに、こういうことはオレさまの柄じゃない。しかし、だ。 「オレからじゃねえよ」 「え?」 怪訝そうにオレを見る一歩に、例の写真へ顎をしゃくって見せる。代理だ、と告げると、一歩が唇を震わせた。 「さあ、食うぞ!おまえも食え!」 「……ハイ」 オレは大きく口を開けて、ケーキにかぶりついた。ケーキなんか食ったのはいつ以来だろうか。甘くて、甘くて、顎の付け根がじんじんと痺れる。でも、たまにはこういうのも悪くない。オレは一歩が鼻を啜る音を聞きながら、ケーキを口に運び続けた。