part 5 出張

出勤すると父のところに来るよう指示があった。課長も知っているようで、すんなりと父の元に行く事が出来た。指示された部屋には、父ともう一人、見慣れた姿があった。

「相沢局長・・・」

「月くん、久しぶり。おっと、今は夜神刑事か。どうにも昔の癖が抜けなくて」

松田さんと同じような事を言って、相沢さんは短くなった髪を掻いた。

「月、そこに座りなさい」

失礼しますと頭を下げてから相沢さんの隣に座る。

「竜崎から聞いているかもしれないが、相沢たち捜査一課は竜崎と協力して今回のキラの捜査にあたっている」

横から資料が差し出された。受け取ったフォルダの中には、日付順に事件の詳細が収められていた。話を聞きながら、資料を順に読む。一番最初の事件は、半年前。それ以後、毎月28日に行われている。

直近の日付を見て驚いた。日付は昨日のもの。あれほどしつこく食事の席にいたのに昨日は姿が見えなかった。戸惑いつつも竜崎の部屋を窺うと、書類が散乱した薄暗い部屋でモニターで映像を見ていた。傍らにはクリームがぱさついたケーキ、白いカップには紅茶が入っていた形跡がカップに出来た茶色のリングで分かった。

何かキラへの手がかりが見つかったのだろうと思っていたが・・・。竜崎は僕にあんなことをするくらいなら、もっと別の事をするべきだったろうに。

クリップで留められた写真を視る。被害者の写真と、拘置所と思われる写真が数枚違ったカットで撮られていた。

「それで、なぜ僕にこれを?極秘情報ですよね?」

「今日呼んだのはその事だ。相沢に力を貸してやって欲しい。前回のキラ事件にも深く関わったお前だ。竜崎のやり方も知っているし、お前なら見つけられる事もあるだろう」

「それは竜崎の指示ですか?」

父が返事をする前に、相沢さんが隣から身を乗り出した。

「いや、私が頼んだんだ。一課でキラ事件に関わった経験があるのは、今は松田だけ。夜神刑事も分かるだろうが、あいつはその・・・少し頼りなくてな。情報管理課の課長には話をつけておいた。出来れば今すぐにでも手伝って欲しい」

父さんを伺うと、相沢さんの言葉に頷いてみせた。手の中の資料に視線を落とす。本当に相沢さんの言う通りの理由なら、もっと早く、それこそ僕が帰国した時にその話が出たはずだ。あの時既にキラによる裁きは起きていたのだから。

なのに事態が変わった。昨日の事件で竜崎が僕を一課の中に置かなければいけない何かが起きたのだろう。庁内で監視をされていないと思う程、竜崎を知らない訳じゃない。だから、僕の周囲に常に人がいることを、それもキラ捜査を行っている一課の人間に囲まれている事を僕自身と言うよりも誰かに知らせたいのか。

「分かりました」

今のところ、僕には全てのカードを見せられていない。竜崎も僕に情報を与えることを避けている。それなら、見に行くだけだ。

「月くん!」

相沢さんの後について捜査本部に入るなり松田さんに呼ばれた。部屋に散らばっていた他の捜査員が何事かと顔を上げる。入り口に僕と相沢さんが立っているのを見て、表情が強張ったものに変わった。

「皆、ちょっといいか」

ばらばらと相沢さんの前に人が集まる。集まった顔を眺めると、確かに知った顔は松田さんだけ。他は挨拶を交わした事がある程度だった。髭が伸びて疲れた顔でも松田さんは微笑んでいる。反応を返しでもすれば、手を振ってきそうだった。

「知っていると思うが、隣に居るのが情報管理課の夜神だ。今日から捜査に加わる事になった」

「夜神です。よろしくお願いします」

ざわりと捜査員が戸惑いの声をあげた。それはそうだろう。今、彼らが手がけている事件はキラ事件。これまで僕が手伝った事件とは、極秘性も危険性も何もかもが違う。犯人は名前と顔だけで殺せる相手だ。一課の面子にかけても他課の力など借りず、本当に信頼できる身内の人間だけで行うべきだと思って当然だろう。

「以上だ。夜神、まずは松田に捜査の詳細を聞いてくれ」

その言葉に我に返った捜査員が、それぞれの作業に戻る。

「月くん。あ、まただ。ごめん、夜神刑事」

「気にしなくていいですよ。松田さんに刑事と呼ばれるのは、僕もなんだか落ち着かない。周囲に人がいない時は、昔の通り月でいいです」

やんわりと微笑むと、松田さんのお世辞じゃない本当の笑みが深くなる。耳が少し赤くなっていた。勘違いかもしれないが、少し距離を気をつけた方がいいかもしれない。

「それじゃあ、月くん。よろしくね。早速だけど、こっちに来て。まずは被害者の資料を読んでもらって、と」

背中に松田さんの手が置かれ、大きな机の前にリードされた。

「僕こそよろしくお願いします。被害者の資料ですが、ここに来る前に相沢さんから見せてもらいました」

「そうなんだ。じゃあ、これを・・・」

背中に視線を感じる。視線を端に動かすと、松田さんと僕を見ている捜査員たちを捕らえた。その視線に隠していない悪意を感じ取る。

「松田さん、彼らは・・・?」

振り向かず、ちらりと流した視線で捜査員を示した。松田さんも少し視線を上げ、彼らを確認する。

「あぁ・・・。月くんが心配することじゃないよ」

「松田さん、僕達が捜査しているのはキラ事件ですよ。何処に何が仕掛けられているのか分からないんじゃ困るんです。情報を隠さないで下さい」

「でも、これは本当に捜査に関係ないことだから」

「それは聞いてから判断します」

松田さんは僕の顔をちらりと見た後、視線を逸らした。唇が二度三度と開いては閉じられる。上手い言葉を捜しているようだった。

「松田さん」

「・・・情けない事だけど、昨日を入れてこれまで7件の事件が起きている。だけど、まだ何も掴めていないんだ。竜崎は分からないけど、少なくとも僕達は。だから、その・・・噂が立っているんだ。相沢さんが本部長を降ろされるんじゃないかって」

「で、僕が相沢さんの代わりに?そんな馬鹿な」

「月くんは夜神次長の息子さんだ。上層部も月くんの優秀さは以前から知っているし、お父さんを通じて人脈もある。知らないかもしれないけど、月くんの信望者って結構多いんだよ。だから、庁始まって以来の若さで警視総監まで辿り着くんじゃないかって言われてる」

松田さんの言うとおり、そんな噂があることは僕も知っていた。面識のない人がわざわざ僕に挨拶に来た事もある。

「けど、彼らは相沢さんのお陰で一課に来たから。きっと成行きを心配してるんだろうね。でもまぁ、僕達は気にせず捜査しようよ」

ぽんと肩を叩かれ、松田さんは資料の山から一つ手に取り説明を始めた。睨んでいた捜査員も作業を再開したようで、背に刺さる視線は感じなくなっていた。

先が思いやられる。周囲の思惑なんてどうでもいい事だが、嫉妬がどんなに厄介なものか僕は幼い頃から知っていた。

*** *** ***

「うぅぅぅ、眠いぃ!」

椅子の背に凭れ、固まった筋を伸ばしながら松田さんが叫ぶ。叫んだ声は途中で欠伸を併発して間が抜けたものに変わった。捜査員たちは昨日の事件発生からずっと捜査を続けているのだから、松田さんが眠いと叫ぶのは当然だった。

「松田さん、今日はもう帰られたらどうですか?」

本部の窓から見えるビル郡も、ほとんどがその明かりを消し、広がる闇はだいぶ濃い。他の捜査員は既に帰るか仮眠していて、部屋には僕達以外いなかった。

「うーん、そうだね。そうしたいけど・・・、月くんはどうする?」

「僕はまだ大丈夫ですから。もう少し資料を追おうと思っています」

「じゃあ、僕も付き合うよ。月くんが来る前に仮眠したから僕もまだ大丈夫!」

資料を捲りながら欠伸を繰り返しているのに大丈夫ではないだろう。能率だって悪い。けれど、僕を一人にするなと相沢さん辺りに言い付かっているのか、眠気を押してまで僕に付き合おうとする。

「あぁ、でも明日の為にお互い仮眠した方がいいですかね?僕も昔みたいに徹夜しても全く平気とは行かなくなってきましたから」

情けなさを装ってそう提案すると、松田さんの顔が輝く。

「じゃあ、仮眠室に案内するよ!」

「ありがとうございます」

足取りの軽くなった松田さんの後を、苦笑を隠して追った。

案内された仮眠室のベッドの一つに横たわる。松田さんは枕に頭をつけた途端、眠っていた。

カーテンが引かれた窓を見る。寡黙なドライバーの彼は、警察庁の外でまだ僕を待っているだろうか。僕が帰らない事はおそらく竜崎に伝わっていると思うが、竜崎がドライバーの事まで気にするとは思えなかった。庁を出て、直接彼に言いに行けばいいかもしれないが、松田さんを起こして車まで行くのは面倒だった。

ベッドの脇に置いた携帯を取る。以前教えられた番号の登録はもう残されていないが記憶していた。回線が生きているはずがない。彼が日本を離れる時にきっと処分したはずだ。

はずだ、ばかりだな。自分の考えに自嘲した。意味のない仮定ばかりを積み重ねている。溜息を吐いて、番号を押した。きっと不通のアナウスが流れる。やっぱりだ。馬鹿な事をしたなと思うはずだったのに。そう思っていたのに。

予想に反して、不通のアナウスは流れることはなく、受話部から人の声が聞こえた。

「はい」

「竜、崎・・・」

「はい。何かありましたか?」

「ちょっと待って、今、移動するから」

ベッドから静かに起き上がり、音を立てないように気をつけて廊下に出た。廊下の先にちょっとした休憩スペースがある。そこに向かった。受話部分から微かに竜崎の呼吸音が聞こえている。竜崎にも歩く僕の呼吸音が聞こえているだろう。辿り着いた休憩スペースのベンチに座り、改めて携帯を耳に当てた。

「待たせて悪かった」

「いえ、大丈夫ですか?」

「仮眠室にいたから移動しただけ。用件だけど、今日は警察庁に泊まる事にしたから。ドライバーの彼をずっと外に待たせるのは気の毒だから、連絡してくれないか?」

「分かりました」

「それじゃあ」

「月くん・・・」

「なに?」

「気をつけてくださいね」

「僕が気をつけなきゃいけない事でも起きた?」

「・・・はい」

「けど、僕には言わない?お前が言わなくても・・・」

「松田さん辺りから聞き出すでしょうね、月くんなら」

「あぁ」

「昨日の被害者が拘置所のシーツにメッセージを残しました。指を噛み切り、血で書かれた文字は、『お帰りなさい、キラ』でした」

「オリジナルキラは僕だとお前が思っている。だから、今回のキラが僕にいずれ接触してくるはずだと踏んでいる。それなら、僕を捜査本部に置くべきじゃない。車の送迎も止めて、相手が接触しやすいように・・・」

「駄目です」

「どうして?僕がキラだったかどうかはひとまず置いとくが、僕を餌にするならそうした方がいい」

「貴方は捜査本部に居て貰います。車もそのままです。・・・監視が、やり易いですから」

「監視?」

「まさかご自分の容疑が完全に晴れたと思っているわけではありませんよね?」

「・・・・・・そろそろ仮眠室に戻るよ」

「月くん」

「まだ何かあるのか?」

「・・・いいえ、・・・・・・お休みなさい」

「お休み」

通話を切る。溜息が思わず口を突いた。捜査よりも竜崎と話した後の方が疲労を感じる。お休みと言ったけれど、竜崎はきっと外界を遮断した薄暗い部屋で眠らずに捜査を続けるのだろう。閉じた携帯を手に包み、しばらくベンチに座っていた。

*** *** ***

「夜神刑事、情報課から内線です」

先日、僕を睨んでいた捜査員の一人が電話を告げた。

「ありがとうございます」

受話器を取り上げると、彼が隣の捜査員にぼそりと暢気なもんだなと呟いたのが聞こえた。

「替わりました。夜神です」

「すみません。情報課の笹井です。一課の手伝いに行っているのは知ってるのですが、検察庁の方が夜神刑事をと指名だったものですから。繋いでも構いませんか?」

「検察庁から?」

その言葉に机の反対側に座っていた松田さんが顔を上げる。僕を窺ってくるのに、大丈夫だと頷き笹井さんの会話に戻った。松田さんは空になったコーヒー缶を持って席を立った。

以前、ネットワーク犯罪の事件で検事と一緒に調査したことがある。裁判が始まったと聞いているが、その件だろうか?

「ありがとう。この間の事件のことかな。出てみるよ」

「たぶん違うと思います。検事は検事でも、東京じゃなくて京都です」

「京都?」

「繋いでもいいですか?」

「いいよ、繋いで」

お願いしますと笹井さんの声を最後に、別の回線に繋がった。

「お待たせして申し訳ありませんでした。夜神です」

「こちらこそ、突然申し訳ありません。京都地検の魅上と申します。少々お聞きしたい事がありまして、お電話させて頂きました」

落ち着いた低い声。竜崎とは違った余韻を残す。声の感じでは、僕と同世代か少し上あたりだろう。顔は分からないが、きびきびと話す口調が裁判での魅上検事の姿を想像させた。

「何の件でしょうか?」

「東京地検の村田検事に聞いたのですが、現在公判中のネットワーク犯罪の立件に手を貸したとか。私も京都で同じような事件を扱っているもので、夜神刑事から助言を頂きたいと思いまして」

確かに東京地検が手がける事件を手伝った事はあるが・・・。そもそも刑事と検察はあまり仲が良くない。村田さんも彼の担当事務官が大学の同期だったから友好を築けているだけだ。

「魅上さん、失礼ですが、京都地検の方が何故東京の僕に?京都警察にもネットワーク犯罪を扱った刑事がいるはずです。東京の僕に聞くより、地元警察と協力した方が利がありませんか?」

「村田さんの話では、夜神刑事が提出した証拠・捜査資料が実に的確で、逮捕すら無理かと思われていた事件が立件できたと聞きます。確かに京都警察にも有能な刑事はいますが、貴方はそれ以上に優秀だ。だから、私が意見を聞きたいのは貴方なんです、夜神刑事」

魅上検事と話していて思い出した。一番最初の事件。受話器を肩に挟み、キーを叩いて最初の事件のファイルを呼び出した。被害者の担当検事は魅上検事ではないが、事件は京都で起きていた。

「夜神刑事?」

「聞いています。ですが、魅上検事、建前はもう結構です。京都の犯罪に東京の僕が助言なんて、少々無理が過ぎませんか?」

電話の先で魅上検事が笑った気配を感じた。

「私が夜神刑事を優秀だと思っているのは本当の事ですよ。実は、先日東京に移動しないかと打診されました」

続けて言われたポストは、魅上検事の年が僕の想像通りなら栄転に当たるものだった。

「おめでとうございます。ですが、貴方の移動と僕がどう関係を?」

「貴方の噂は京都にも届いています。東京には東京のやり方があるでしょうが、いずれ最年少で総監まで登りつめると言われている貴方と交友を持つ事は邪魔になるものではありません。近々研修で東京に行きます。その時に一席設けますので、お逢い出来ませんか?お互い、損な話ではないはず。いい関係を築けると思いますよ」

「評価して頂くのは光栄ですが、買いかぶりすぎです。それに、今は捜査で忙しくしていますので・・・」

「分かりました。では、昼食をご一緒させて頂くのはどうでしょう?いくら多忙とは言え、食事は取られますよね?」

喰い付いて来た。このタイミングでの接触、京都、いくらでも理由は付けられる、だが・・・。

「昼でしたらなんとかしましょう」

「ありがとうございます。近くなりましたら改めて連絡させて頂きます。お逢い出来るのを、楽しみにしています」

検事との電話を切り、すぐに竜崎に連絡を取った。

「竜崎」

「聞いていました。今、魅上について、調べさせているところです」

「何か見つけたら・・・」

「えぇ、知らせます。月くん、一人で逢いに行く様な事はしないで下さいね」

「分かってる。それじゃあ」

竜崎との会話の後、僕自身でも魅上検事について調べた。両親は離婚、母親に育てられた。成績は優秀で、司法試験の結果もトップクラス。続いて彼が手がけた事件が羅列されていた。

検察官と言う職業についている者たちは、キラについて快く思っていない。法治国家の一端を担う彼らにとって、自分勝手な正義でもって犯罪者を裁くキラは目障り以外の何者でもないのだろう。

だが、彼らの人間としての本音の部分は、精神を病んだ振りをする小賢しい犯罪者や金を積まれた弁護士が犯罪者に知恵をつけ無罪を勝ち取って行くのを歯がゆい思いで見ているのも事実なのではないだろうか。法の限界を目の当たりにしているのも彼らなのだから。

京都地方検事局 検察官 魅上照。

見つけた写真は、やはり声から受けた印象通り、強い瞳を持った理知的な面立ちだった。

二日も帰っていない松田さんと、本来なら部外者の僕を気遣って、相沢さんが僕達に帰宅を命じた。コートを手に警察庁を出る。いつもの所に車が停めてあった。僕に気づいたドライバーが出てきてドアを開ける。だが、車に向かう途中の僕を呼びかけた人物がいた。

「月!」

庁舎の入り口に立つ人影。そちらを振り返った僕を、走ってきたドライバーが背に庇う。

「誰だ?」

「お前こそ誰だ?」

しばらく見ないうちに随分やつれていた。眼鏡越しに見る瞳には皺が出来、僕と同い年なのに髪に白いものも既に混ざっている。職業柄、苦労が多いのだろう。ドライバーの背から出て、まだ睨み合う二人の間に入った。

「山元孝介。僕の友人です」

「いやー、びっくりした。いつの間にボディガードとかつくようになったわけ?」

「ちょっと事情があって・・・。それより孝介、いきなりどうしたんだよ?庁舎の入り口で待つなんてストーカー?」

何がそんなに可笑しかったのか分からないが、山元は身体が傾くほど笑った。僕は松田さんに教えてもらった店に山元とステファンを連れてきた。ステファンと言うのがドライバーの名前らしい。名乗られた時、和名ではなかったので驚いた。だが、近づいて良く見ると瞳が日本人のものではなかった。

明日が休みの所為か店は混雑していて、僕達は二人と一人でカウンターに座っていた。どうせ監視するなら一緒に飲めば?と誘ったが、監視対象と一緒にいるのはまずいのか僕達から少し離れたところをステファンは陣取った。酒場に一人で来て酒を飲まない彼を店の人が随分不審がっていた。

「月の親父さんがこの間うちの病院に来て、お前が帰国したって言うから会いに来たんだろうが!帰国した事も知らせないなんてお前ひどくね?」

返ってくる言葉にさっきまでの笑いが染み付いていた。今の山元は、何が転がっても笑い出しそうだった。

「悪かったよ。帰国してすぐに事件の捜査に加わったから、連絡するの忘れてた」

帰国してからずっとあのビルで竜崎と生活している。だから、友人たちの事まで頭が回らなかった。知り合いは多いが今でも連絡をつけている友人は少ない。けれど、お互い仕事にプライベートを侵食される身だから、目の前の事以外に気が回らないのも仕方がないと分かってくれる。

お陰で、逢わない時間があっても、こうして逢えば以前の様な付き合いが出来る。

「なぁ、鏡、覚えてるか?小学校が一緒だった」

「太郎だっけ?」

「そう、そいつ。月がいない間に結婚して、今は子持ち。お互い、もう父親になってもいい歳だよなー」

「結婚しろって言われてるのか?」

「まぁな。さっさと身を固めて、病院経営に回れって煩くて。俺はまだ医者でいたいのにさ」

「大病院の跡取りは大変だな」

「お前だって似たようなもんだろ。ところで、フランスはどうだった?フランス人の恋人とか出来ちゃった?」

「まぁ、2、3人だけどね」

「うぇー、お前がフランス語で彼女に愛を囁いているところなんて想像できないよ」

どんな顔でジュ・テームとか言ったんだよと、ハイテンションで山元が笑う。もっとも、囁かれたのは僕で、囁いた恋人は男だった、と心の中だけに呟いた。

「それで、本当に今日はどうしたんだよ?僕を本庁で待ち伏せする位だ。何かあったんだろう?」

山元はビールから焼酎に変わったグラスを舐めた。

「昔さ、キラっていただろ?」

カウンターの奥を眺めたままぽつりと呟く。その言葉に心臓が一瞬止まった。目の端で捕らえたステファンにも警戒が走る。内心の動揺をおくびにも出さず、山元の話を促した。

「いたな。善良な人が報われる世界を、だっけ?」

「そう、それ。昔はさ、子供じみた奇麗事を振りかざして、なんていけ好かない奴なんだろうと思ってた。絶対世間を知らない奴が言ってるんだろうと軽蔑してた。でも、最近はそうじゃなかったのかもと思い直してる。もしかして、いろいろ見てきた奴なのかもって。現実に起きている事をたくさん見てきて、世の中が回るためには綺麗ごとと同じ位そうじゃないものがあるって知った上で、それでも善良な人間が救われる綺麗な正義を実現したかった、実現させるって覚悟があった奴じゃないかって」

「でも、そんな世界はない」

「分かってる。けど、そう思わずにいられない。最近、おかしいと感じることはないか?俺なんかより犯罪に近い所にいるお前の方がそう感じてるんじゃないか?」

「山元?」

山元を随分長い間知っている。小学生の頃からかなりのリアリストで、周囲の大人たちが言葉に窮することもしばしばあった。その山元がこんな風に言葉を吐き出すのを初めて見る。

「この間、子供の患者が来た。怪我を一目見て、すぐに虐待だと分かった。けど、その子が言うんだ。お母さんは悪くない、僕が良い子じゃなかったから、だから言わないでって」

「通報しなかったのか?」

「もちろんしたさ。義務だからな。どうやら以前にも相談所に保護された事があったそうだ。状態の良くなった親に戻され、再び虐待が始まった。虐待は前よりもひどい。そして、今日、その子が救急で運ばれてきた。身体の大半を火傷が覆って到着する頃にはもう息を引き取っていた」

「・・・お前が出来る事はやったよ」

「そうか?・・・俺にはそう思えない」

山元が求めるだけ酒に付き合った。アルコールに逃げるわけじゃない。けど、その力を借りて、酔いとともに薄れるものもある。

*** *** ***

足元がふらついて一人で帰すには危ないので、山元を自宅まで送った。ステファンは、車の中で鼾をかき始めた山元に何も言わなかった。

「孝介、着いたよ。一人で部屋まで帰れるか?」

「あぁ、大丈夫。悪かったな、月。あんたも悪かったよ、遠回りさせて」

ステファンは軽く頷いて謝罪を受け入れた。

「じゃあな。また飲もうぜ」

車のドアを閉め、マンションの入り口に向かう。その後姿を見送った。足元はふらついているが、意識ははっきりしているから大丈夫だろう。入り口の自動ドアが近づいてきた山元に開いた。中に一歩、足を踏み入れたところで、何か思いついたのか身を翻して山元が車に戻ってきた。

僕の傍まで来てガラスを叩く。車のドアに備え付けられたスイッチを押して窓ガラスを下げた。ドアに手を掛け覗き込んでくる顔は、酔っている割に変わらない表情。意外にも眼鏡越しの目には理性があった。

「言い忘れてた。お帰り、月」