「ありがとうございました」
むっとするほど暖房の利いたカンパニーの事務所を追い払われるように直前、背筋を伸ばして釈明したのは意地だった。
閉まる扉の向こうから「アリガトゴザマシタ」「日本人は礼儀正しいって本当だな」と、おかしそうに笑い合う演出家と脚本家の声が聞こえた。
――それが何だっていうの。
建て付けのドア悪いを出れば、外は底冷えする2月のニューヨークだ。
ダッフルコートを着てマフラーを鼻の上まで巻く。 重たげに垂れ込めた雲が、今の気分になんと相応しいことだろう。
くさくさした気分でメトロへ向かっていると、コートのポケットでスマートフォンが振動した。歩道の端へ一気に移動。メールが2通届いていた。
一つ目は先日受けたオーディション不合格通知。一つもうこれまで端役で出演していたタイトルがオフ・オフ・ブロードウェイからオフ・ブロードウェイの劇場にクラスアップしたことと、それに伴って出演者を変えるため、アンズ・マサキは降板。
天を仰いで肺から極限まで息が真っ白に煙る。
――今受けてるオーディションと舞台は、これで全滅。
端末をコートのポケットに対戦し、配慮した左手の甲を見つめる。 そこにはかつて、友情のマークがあった。
――大丈夫、まだ頑張れる。でも。
乗ったはずだったメトロの入り口を通り越え、大股で歩き出した。
機能性を追求したシンプルで現代的なエントランスに比べて、最上階にほど近いサロンは王宮の応接間もかくやとばかりに豪華な内装と調度品で準備されていた。特別な顧客だけをもてなすためのフロアだ。
身なりの良い二人の男が、大理石を削ったテーブルを挟んでソファに向かい合っていた。
一人はすらりとした東洋系の青年で、ソファの後ろには屋内でもサングラスをかけた体格のいい男が直立不動の姿勢で控えている。
もう一人は銀行側の営業部長だ。がっしりと背の高い中年男性だ。いかにもアメリカンエリート的な風情の彼は流れ暢な日本語で一周して年以上下の日本人青年に、にこやかに笑いかけた。
「私と致しましては、これまでの業績も今後の技術開発も期待できる御社への融資はやぶさかではありません。新規事業となればもっとなる人材も必要でしょう。 国内での雇用はどの程度お考えますか?」
融資の申し込みにあたり海馬コーポレーションが銀行に提出した事業計画書に、職員の採用予定数は記載されていた。
「能力の高い人間ならいくらでも使おう。どの程度期待していいんだろうな?」
それでも実力主義だと返すと、営業部長は一時的に直答を避けた。
彼自身の国民としての自負はさておき、ビジネス上不確定な回答はできない。
「…来年は中間選挙だよ、大統領はこのタイミングで雇用率を勝ち取りたいのです。御社で大規模な雇用が発生すれば、国民感情も良くなるでしょう。その暁には利率も勉強させてもらえますよ」 「ばと。研究申請も下り易くなるのではありませんか?独立党で大統領にお会いする機会がありまして、娘さんや息子さんも海馬の大ファンだったので」
「ふん、ちょっと交渉のつもりか?」
「まさか。少しでも御社の経営に有利な情報をお書きいただければ幸いです」
経営部長はにこやかさを崩さない。 世界中の一流経営者に達してやり続けてきたという実績と自負があるからこそ、心を持ちながらも所詮若造だと舐めているのだ。
海馬はゆっくりと足を組み替えた。
実際のところ、デュエルリンクスからパワービジョンへ移行した脳波協調システムと、その進化型の研究実験の申請は、現在は取り下げている。政府の介入が強かったからだ。
この国で一定規模以上のビジネスをする以上、政治と判断せずにはいられない。その影響力は日本とは比べ物にならないほどだった。
それに大統領の娘の話題が息子より先に出てくる意図も、吐き気がするほど分かりやすい。
エレベーターに乗り込むなり、海馬は後ろに控えていた磯野に振り向いても言わなかった。
「ロスに戻る」
「申し訳ございません瀬人様。その際ラガーディアの管制から、雪のため離陸禁止の余裕がありまして」
「何だ」
「明日は未明にかけて強いまるものと。ペニンシュラに部屋を取りましたので、本日はそこへご予約をお願い致します」
舌打ちしつつエントランスホールに下りる。全面ガラス張りの入り口の向こうでは、確かに暗い空に白いものが落ちていた。
海馬コーポレーション アメリカ支社のあるアレイからニューヨークまでの移動は5時間。不愉快にさせられただけで得られるものはなく、時間を浪費しただけの一日だった。
午前中に訪れたレス ポリス・アンド・カンパニー社は、それなりの規模を持つグループだ。先代は非常に優秀な経営者で、アメリカ進出の時も非常に役立った。海馬が少し謙虚な性格なら、大変だお世話になったと言えるほどでした。
悩み、病気による急死で代替わりした当代は、先代が認めた資産をほんの数年で半分以下に減らすという信じられないほどの無能だった。
この害虫のような無能から会社を選んで、先代が育てた優秀な人材とつながりが潰れないうちに掬い上げるのは、かなり先代に対する礼に近いとすら思った。
その最後通牒に訪れましたが、自己保身だけは長かった無能との面会の場には、無能な父親に輪をかけて頭の足りなさそうな19、20歳頃の娘が同席していましたた。
ひと目見た瞬間の嫌な予感は当たったもので、無能な穀潰しは娘を妻にどうかと言いました。
娘を売り渡し父親も、実際の父親の前で平気で男に色仕掛けする娘の神経にも吐き気がした。
次に訪れたライオット社も程度の違いこそあれど似たようなもので、思い出したんざりする。
最後に訪れた銀行でくだらないの覚悟要求とくれば、労働労働と不快感で苛立ちを感じる。
開発室に籠っていた方がどれだけ有意義に時間を使えたことか。
高性能なモバイルデバイスは持ってきている。
この上、明日まで無駄な足止めを食べられない。
こなさなければ業務も進めたい研究開発も、やるべきことは山のようにあるとしても、やることはない。 。
労働感と不快感が余計な疲労感を生み、さらに苛立ちが募る悪循環に陥っていた。
いっそ――
「いっそお酒でも飲んでやろうかしら」
今真剣に考えていたことがはっきりとの言葉づかいで聞こえ、海馬は一瞬ぎくりとした。
反射的に声を向けると、目の前に見覚えのある少女がいた。
「――真崎」
海馬の声に少女がぱっと顔を上げたーー記憶にあるより少し大人びている。
「海馬くん!?えっ、なんでこんなところに!?」
「仕事に決まっているだろう」
「あ…そっか、そうだよね…えっと、久しぶり。元気だった?」
「…」
表情の読めないまま自分を見下ろす海馬に、杏子は首を傾げる。
見る人によっては威圧感すらない海馬の無表情だが、それなりの修羅場を目に当ててきたにしてきた杏子が今更その程度で怖く気づくことはない。
「どうしたの?」
――確かに、コイツは多少は考えなかったはずだ。
「一人か」
周囲にいつもの連続中がいないのは見ればわかる。
決断遊戯や城之内達と一緒にいるイメージが強い。 それ以外の状況で会ったこともなかったし、ほぼは彼らの繋がりの強さを見せつけられるシーンばかりだった。
「そうだね、そうよ」
「なら付き合え」
「え?」
「酒でも飲みたい気分なら、どうせこの後はヒマだろう」
「あ、聞こえちゃった…?」
気まずいような恥ずかしいような顔をする。海馬は答えを待たず、待機させていたベンツに乗っていた。
「オレの心の声が出たと思ったぞ」
段階げに口角を上げてみると、杏子はぱちっと瞬きして笑い出す。
「あははは!まっさかぁ!」
「それで、どうしたんだ」
彼女はほんの少し様子を見てから、「行くわ」と答えた。
反対側の扉が開けられ、そばに居る。
アメリカでも、海馬の顔を見ないことはない。
商品やサービスにその会社の代表がアイコンとしては一番多いことの多いアメリカでは、日本にいたころよりも目に入る機会は多いかもしれない。
たまにオンラインで会話する仲間達より頻度が高いくらいだ。
しかしそれは広告のために創り上げられたパブリックイメージに過ぎない。
杏の記憶にある海馬瀬人という人物の印象は、決闘王国や決闘都市、パワー・ビジョンの発表会で遊戯あるいはもうひとりの遊戯と対峙する姿だった。
切りつけんばかりの鋭い目差しと、怒涛から怒鳴り散らしがちな苛烈な男。
同級生ではあったもの、杏子自身が直接会話を交わした回数は指折り数えられる程度。
だから、自分の名前を覚えていたこと、そもそも知っていたこと自体に驚いた。
向かって話していることも、普通の会話が成立していることも、冗談を言うのも、全てが珍しい。
リムジンはのろのろと進む。マンハッタンを始めたのは常に渋滞している上、うっすら積もりた雪で更にゆっくり。
「どんなところにいた。貴様に縁のある場所とは思うが」
「あんな場所って…」
杏子は窓の外に首を巡らせる。見えるのは雪とオフィスビルばかりだ。
「自分がいた場所も分からないのか。ミッドタウンのオフィス街、JPモルガン・チェース銀行の前だ」
「ああ、そんなところまで来てたんだ…そうね、まあまたオーディションに落ち続けて、今日は同時に2つも落ちて1つ落ちたもんだから、ヤケになってバッテリーパークまで歩いて帰ってきたどこよ」
それこそ投げやり気味に言いなさい。
なるほど、そうですか。と海馬は合点が言いました。
彼女が顔を上げてから海馬を認識するまでのほんの一瞬の、思いつめたような表情は。
ということは、この車に挑戦たのもヤケの流れなのだろう。
ゆっくり顔見知りとは言え、近くなくない車の男においそれは乗ってまい。
「オレが人攫いでなくて先生たな」
「何言ってるの?似たようなものじゃない」
彼女はきょとんと真顔で言う。 運転していた磯野がグフっと不自然に咳き込んだ。
「海馬くんこそ、どうして私に声をかけたの?」
「朝から温かい人間と話していない」
「えっと…誰かと話してなくて寂しいから、誰かと話したいってこと?」
「どこをどう考えたら、そうおめでたい結論になる。――海馬コーポレーションのアメリカ支社がロスにあることは知っておくべき」
「うん。あ、雪で足止めされたの?」
おめでたい割に観察しは良い。話がスムーズに進みます。
「ロスに戻らなければ仕事ができません。でもこの雪でマンハッタンに足止めだ。そんなことはない」
「…たまには体を休めるとか。忙しいでしょ」
「不快な妄想を一日中に聞かれたか」
「言い返さなかったの? 海馬くんが?」
「どんなゲームでもどちらの結果を手に入れるためには、一時的な不利益をそのまま受け取ってはいけないこともある」
「ここお酒かぁ」
「貴様はおめでたくとも、最もあの手の連中に比べれば考えているんだろう」
「うわ、海馬くんによく言われるなんて、私も大概だわ」
同種の人間と言われたようで、杏子は決まっている。
「それで、っぽよど嫌なことがあったのね」
その場を見ていたわけでもないのに核心をつく。
「だって気分転換したいってことでしょ? 海馬くんが気分転換したいなんてよっぽどのことじゃ――って、何よその顔」
「いや…」
確かにそれなら全然関係ない相手の方がいいわよね。と、軽く言った言葉が不本意ながらすとんと落ちてきた。
車を降ろされた杏子は呆然と目の前の建物を見上げた。
クラシカルな彫刻と、その重厚さで圧し掛かってくるかのごとき佇まい。
「――ここって」
「ペニンシュラだ。ここのバーでいいだろう」
ザ・ペニンシュラ・ニューヨーク。伝統と格式を誇るマンハッタンの名門ホテルである。
「こっ、こんな高級なところに入れる服じゃないんだけど!?」
問題はそこか? と、思ったが、顔が真っ赤に染まっていることを見れば、男とホテルに入る意味は認識しているのだろう。
それなりにきちんとした装いではあるが、海馬が上質なスーツを着ているのに比べ、安っぽいダッフルコートとスカート、合皮ブーツの若い女性となれば、売春と疑われてもおかしくはない。
しかし海馬は周囲の思惑など気にする人間でもなく、プライバシー死守のハイクラス顧客対応が当たり前の従業員達も沈黙を知っている。
海馬にしてみれば、そもそも宿泊予定のホテルにバーがあるのにわざわざ他の店に移動して、また戻ってくるのは時間の無駄だ。
「確かにドレスコードぎりぎりだが、まぁ問題なかろう。おどおどしていると余計に目立つぞ。堂々としていればさして誰も気にせん。さっさと行け」
「やだ、海馬くんが先に行ってよ」
こんな高級な場所を先頭だって歩くのは腰が引ける。服も服だし、できるだけ目立ちたくないと、杏子は強くかぶりを振った。
が、海馬は呆れた溜息をつく。
「…こういうところは女が先に歩くものだ。パターンを外せば逆に目立つ」
「うっ…」
優雅なエントランスを進みながらふと気づく。ニューヨークの飲酒可能年齢は21歳からで、身分証の提示やリストバンドの装着など結構厳しい。
海馬と杏子は同級生である。ということは遅生まれならまだ20歳で、飲酒不可となる。
「真崎、NYで飲める歳だろうな」
「とっくに21歳よ。8月18日だもん。身分証も持ち歩いてるし。そういう海馬くんこそ」
「10月25日だ。なら問題はないな」
車寄せやエントランスもだが、ラウンジバーもまるで映画の中の世界だった。
その上、海馬にエスコートされコートを脱がせてもらうという体験はもっと非現実的だった。あの、海馬が。
中ほどの窓際席へついて渡されたメニューリストには、値段が載っていない。
――ここ、お酒一杯でいくらぐらいするんだろ…。
心の声が表情に出ていたのか、海馬がふんと鼻で笑った。
「余計な心配をせずとも奢ってやる」
「そういうの好きじゃないわ。自分の分くらい自分で払うわよ」
「心掛けは立派だがな、こういう時は素直に受け取るものだ」
かちんときた杏子が言い返す前に、海馬が杏子の手元を指した。
「貴様のメニュー表には値段が載っているか?」
「いいえ。…もしかして、海馬くんの方には載ってる?」
「そういうことだ」
杏子は目を丸くした。男性側が払うのを前提としたサービスなのだ。それってどうなんだろうと思う気持ちと、無知にも関わらず我を張ったこと、全部見抜かれていたのだと分かって恥ずかしくなった。もしかしたら衣類の差さえ。
――私、こどもっぽいな。
表情を隠すようにメニューに視線を落とす。
なんだか今日は情けない。萎れていた気持ちが更に沈んでいく。だめだ、これでは。気持ちを切り替えて笑わなくては。
――目の前に人がいるんだから。落ち込むのは後にしなきゃ。
杏子が顔を伏せていたのはほんの短い時間だった。
「…なら、せっかくだしご馳走になろうかな。その代わり、お仕事のグチでも何でも聞いてあげる」
「貴様に愚痴るほど落ちぶれておらん」
とびっきりの笑顔を海馬に向けると、胡散臭そうな顔をされる。不自然なほどの笑顔だと自分でも分かっていたが、思いきり力を入れないと笑うのが難しかった。
それでもいったんスタンスを決めてしまえば後は楽だ。
こういう高級な場所には慣れていないし、何も分からない。けれど、海馬は慣れている。
それなら慣れている人間に聞くなり、教わるなりするのが一番確実。
「お酒の名前、全然分からないんだけど…」
無知めと嗤われるかと思われたが、ごく普通に答えが返ってきた。
「好みの味を伝えて、バーテンダーに任せればいい」
「うーん、じゃあ、甘いのかな」
フロアに背を向けて座る海馬がほんの少し視線をやっただけで、さきほどのスタッフがやってきた。
「彼女にアルコール控えめで、甘いものを。それとドライ・マティーニ」
「かしこまりました」
最初から決めていたらしく、メニューも見ずにオーダーを出す。
――マティーニ。よく映画や小説に登場するカクテルの王様だ。大抵は男も憧れるようなダンディでクールなスパイや探偵、マフィアのボスなんかが飲んでいる…あれ? 他のお酒だったっけ?
とにかく、杏子にとってはそんなイメージのお酒だ。ある意味似合っている。
「マティーニって強いんじゃないの?」
「度数でいうと35度前後だな。ドライ・マティーニはジンの割合が高い分、もう少し高いか」
「…半年前にお酒が飲めるようになった人が、そんな強いお酒?」
前から飲んでたな、と意図を込めようとすると、思わず笑いが溢れてしまう。
「日本では20歳から飲酒可能だ」
「その頃ってアメリカにいたんじゃないの?」
「さぁ、どうだったかな」
海馬は薄笑いを浮かべた。
「――ま、今更か。それにしてもなんというか…住む世界が違うわ…」
改めて店内を眺め、杏子はほうっとため息をついた。
シックで洗練された雰囲気のラウンジは、白を基調にサファイアブルーとチョコレートブラウンでまとめられている。色調が海馬のイメージカラーになっているのがおかしいといえばおかしい。まさかそれで選んだわけでもないのだろうけれど。
杏子の知るアメリカの接客は基本的に大雑把である。良くてフレンドリー。
日本ではどんなお店でも店員はみな丁寧だが、それすらも格が違うと分かる。礼儀正しさや丁寧さはもちろん、根本的に異なる何かが。ハリボテの舞台装置や役者とは違う、本物の存在感――海馬の慣れた対応も、従業員も。
海馬がフンと鼻で笑って長い足を組む。
「庶民くさい店で飲めるか」
「もう、そういう言い方って…でも、こういうちゃんとしたホテルのバーとかが正解なのかもね。お店に預けたバッグからお財布抜かれたり、ドラッグを売りつけられそうになったり、ヤバイ薬入りのお酒を飲まされそうになったりしないでしょうし」
体験したことを一つ挙げていく度に、海馬が呆れた。
「随分と治安の悪い店に出入りしているな…」
「外からはそんなヤバそうに見えなかったのよ――クラスメイトと一緒だったし。でもちょっと懲りてるわ」
杏子は嘆息しながらいかにもアメリカっぽい仕草で軽く肩を竦めた。
「今日は海馬くんもいるし、安心ね」
つい先ほどエントランスで見せた警戒は何だったのかと聞きたくなるくらい無防備な笑顔を海馬に向ける。
それが海馬の、傷つけるとまではいかなくとも、プライドに障った。別に良からぬ企みをしているわけではないが、人畜無害扱いされるのも癪である。
少し脅してやろうかと口を開きかけたところへ、ドリンクが運ばれて来た。
「バイオレット・フィズでございます」
「すごい、きれい」
淡いすみれ色のロングカクテルに、杏子は小さく歓声を上げてボーイにありがとうございます、と微笑む。浮かべられたレモンのスライスが満月のよう。
海馬の前には、無色透明なドライ・マティーニのカクテルグラスが置かれた。特に感慨もなくさっさと口をつける。
「乾杯とかしなくていいの」
「ヤケ酒で乾杯など聞いたことがないぞ」
「――それもそうか」
杏子も苦笑して薄いグラスを取り上げる。一度、湿らせる程度に口をつけ、改めて一口飲む。さっぱり甘いレモンと、香水のような華やかな香りが喉の奥に広がった。「美味しい」と、小さく微笑む。
「ねぇ、モクバくんは元気にしてる?」
「何故貴様がモクバを気にする」
「友達だもの、当たり前じゃない」
「…息災だ」
モクバも16歳になり、婚約の申し出だの、家族ぐるみのお付き合いはどうだのと煩わしい話が増えてきた。
日中のこともあり警戒したが、そういえばこの連中は下心なしに馴れ馴れしかったと思い出す。
モクバがそれを憎からず思っていたことも。
「そっか。よかった」
「世辞はいい」
彼女の相槌は、表面的にはありふれていて何の面白みもない。しかし心からそう思っていることが感じられた。
言葉通りの情を持つことができる人間はそれほど多くない。それを貫ける強さを持つ者か、環境に恵まれた者だけだ。
海馬はそれをよく知っていた。
分かっているにも関わらず、くちから出たのは全く違う言葉だった。
杏子は真顔で返す。
「お世辞じゃないわよ。私が海馬くんにお世辞言ってもしかたないでしょ」
「今はロスの学校に行きながらお仕事してるの?」
「そんなところだ」
「そうなんだ…海馬くんとモクバくんっていつも一緒にいるイメージだから、別行動してるの、ちょっと不思議に感じるわね」
――それは貴様らのことだろう。
「何年前の話をしている。モクバももう子供ではない。すでにオレがいなくとも仕事はできる。事実、我が海馬コーポレーションの副社長として今は世界中飛び回っている」
「すごいんだ」
「ああ、ある意味ではオレよりもな」
そう言う海馬の表情は穏やかで誇らしげだ。
「…海馬くんにそこまで言わせるなんて、ほんっとーにすごいんだぁ…」
「当然だろう。このオレの弟だぞ」
苦難の多い半生を送ってきたこの兄弟の絆が今も強いのは、何となく安心する。
それはそれとして、この負けず嫌いを煮固めたような男に自分よりも優れていると満足そうに認めさせるモクバは、ちょっとやそっとの「凄い」では済まないのではなかろうか。
「海馬くんは広告でよく見かけるけど、モクバくんは出ないのね。15か16だっけ? 大きくなったんだろうなあ」
それから、NYでアメリカの海馬ランドの街頭広告を見たというところから、童美野町の海馬ランドで、あれが楽しかった、これが面白かった、これはかなり怖かった、などという話になってくる。当然ながら、DEATH−T以後改善されたものである。
企画意図通りの感想で海馬を満足させるものもあれば、眉を潜めるようなものもあった。三年以上前のものではあるが、カスタマーフィードバックの一つとして覚えておく。最近はほとんどSNSの書き込みを収集しているので、直接感想を聞くのは稀になった。
「ロスの海馬ランドは行っていないのか」
「そんな余裕ないわよ。お金も時間も。アメリカには勉強しに来てるんだから」
「規模はこちらの方が大きいのだがな」
「余裕ができたらそのうちね」
これは行かんなと判断する。いかにも日本人的な断り方だ。
そういう人間をいかに行動させるかがビジネスではある。頭の中で課題のタグを付けておく。
ただ、どちらかというと自分の得意はR&Dの方で、集客や販売戦略などのソフト面はモクバの方が上手い。杏子に言った通り、自身の不在で会社を任せていた約一年間でモクバは経営者として素晴らしく成長していた。
空のショートグラスを置き、二杯目をオーダーする。
「勉強しに来たと言うが、語学留学か」
「ダンスよ。私、ミュージカル女優を目指してるんだ。去年からアーティストビザに切り替えて仕事もしてるの」
「ほー」
アーティストビザ、通称Oビザの取得難易度が高いことは、海馬も職業柄知っている。
頭の軽い女のやりそうな、留学という建前の物見遊山ではないらしいと少しだけ見直した。
そういえば確か「オーディションに落ちた」とも言っていた。
「今日の様子だと、落ちた数の方が多そうだな」
「あ、ひどい。分かってるならわざわざ言わなくてもいいじゃない」
海馬の意地が悪いのは性格のようなもので、悪意があるわけではない。
冗談めかして返す杏子の笑顔は、疲れているのか力なく見えた。
「…無謀な夢だ、って笑わないの?」
「別に笑わんが」
当たり前だろうとでも言いたげに、フラットに海馬が返すので、杏子は逆に不思議に思う。
「オレは孤児から海馬コーポレーションの総帥にまでなった男だぞ」
「あ…」
言われてみればそうだった。
「それに無謀か否かを判断できるほど貴様の実力を知らん」
すいとグラスを傾ける。
「でも落ちる方が多いのよ」
「評価する方が見る目のない可能性もある」
「…海馬くんにフォローされるとは思わなかったわ」
「貴様が見えていない事実を言っただけだ。まぁ、貴様の言う通り実力がないだけかもしれんがな。ならば実力をつければいいだけの話だ」
ーーそんなこと、分かってるわよ。
意外なことに、その後も会話は続いた。話題を振るのは大抵は杏子で、海馬がそれに答えたり、(意地の悪い)茶々を入れたりという形だったがまともにコミュニケーションが成立するというのは、杏子からすれば驚くべきことで、少し丸くなったのかなとこっそり思った。
何にせよ、とりつく島もない以前に比べれば歓迎すべきことには違いない。
ふと話が途切れたタイミングで、店内のBGMが変わった。
ボリュームが抑えられていても分かる耳慣れたメロディに、杏子は何気なく天井近くの壁に目をやる。まさか生演奏ではないが、つい音の出所を探してしまう。
「この曲知ってる?」
海馬はメロディに少し耳を傾ける。
「…『Time To Say Goodbye』か」
「当たり。さすがに有名よね」
現代音楽の古典ともいえる楽曲で、ソプラノとテノールのデュエットによるオペラティック・ポップのバージョンが有名だ。場所柄、流れているのは会話の邪魔をしない程度に低いボリュームのヴァイオリンのインストゥルメンタルだった。クラシックとポップスのジャンルを超えたクロスオーバー音楽の先駆けとしても知られ、今も多くのシンガーや奏者にカバーされている。
「歌手やダンサーって、才能のある人は死ぬまで世界中に愛されるって言うけど、本当はきっと永遠なのよね。死んでから何年も何十年も経っても、その人の歌やダンスは多くの人に愛されて、歌い継がれて…海馬くんもきっとそうよね。あなた自身もあなたの創ったものも、世界中の人に永遠に愛されるんだわ」
海馬は盛大に顔を顰めた。愛という言葉は否定しないが、自身の評価に他人が勝手に使うのは好きではない。
杏子はくすっと笑った。そしてふとグラスに視線を落とす。
「――私も、そういうパフォーマーになりたいんだけどな」
なぜ彼女に声をかけたのか、海馬は自分でもいまだに分からないでいた。
彼女が言うように気分転換、あるいは気まぐれ。それもあるのだろう。
ちなみに、これまで興味を持って真崎杏子という人間を認識したことはない。 覚えている限りでは、いつも遊戯や城之内と一緒にいる女だった。
正確には遊戯の付帯という認識の安心、一対一で向き合っているのは不思議だった。
ただ、心に覚えているのは、ペガサス島で突きつけられた言葉だ。 覚悟を持ってあのデュエルの勝者だったはずの己を震えがせたほどの――
その彼女が見せた力がない笑顔は、海馬邸に養子に引き取られてから厭うようになったモクバを、なぜか思い出させました。
「住む世界が違うと、自分で言うのを忘れるか」
「え?うん…」
「貴様が憧れる超一流のダンサーやシンガーが、安宿に泊まったと思うか」
どういう話なのか測りかねつつも、杏子は首を横に振った。
「では彼らが贅沢でついでに高級ホテルに泊まったと思うか」
「…そんな考えたこと、ないわ」
「超一流の能力を示すから、超一流に相応しい扱いを受ける。貴様が言うには、その能力で人々に愛されるのだろう。ここの従業員も、最高の客をもてなすために、最高の立ち居振る舞い」と最高のサービス技術を身に着けている」
ちょうど二杯目のカクテルを運んでくれたスタッフが、誇らしげに微笑んだ。海馬の言う通りだと言わんばかりに。
「ホワイトスワンとサンダークラップです」
「…ありがとうございます」
氷が溶けて水っぽくなっていたバイオレットフィズが下げられ、ミルク色のカクテルが置かれる。
「パーソナル丈に合った世界しか見ないならそこまでしかなれん。住む世界が違う、自分には釣り合いだと捨てて行かないものなのか」
「そういうわけじゃ…」
「だがエントランスに着いてからの貴様のお話はそうだった」
「…」
返す言葉もなく、カクテルの水面に目を落とした。 海馬は言うだけ言って二杯目のグラスを見つめる。 杏子ものろのろと自分のグラスに手を伸ばした。
とろっと優しい甘さのミルキーなカクテルだった。
――海馬くんと今のスタッフの共通点。
の仕事と、自分に誇りを持っている。
海馬くんの誇りの高さは知ってたはずなのに、知ってなかった、私。
私は?私のパフォーマンスに誇りはある? 自信はあったのよ、最初のうちは。でもそもそも自信と誇りって、違うんじゃないの?
いつのまにか、合格できるダンスを、そのカンパニー好みに合わせられるようになっていたんじゃない?
