Episode 14 Dream and Fantasy(3)

Rating : T

Genre : Romance

Spoilers : NONE

AN : 記念日デート。そしてグリッソムの夢。


Chapter 3

サラは買ったパンフレットを熱心に読んだ。まるで教科書を読み込む学生のようだと思ってグリッソムは秘かに笑った。
彼女はグリッソムの解説にも素直に耳を傾けた。オペラはイタリア語だったが、サラも少しはイタリア語をたしなむので、時々グリッソムに確認する程度で済んでいた。
幕間の休憩時に電話がかかってきたときは、二人して落胆の息をついたが、ひとまず電話に出るためにグリッソムはラウンジの隅に移動した。
テーブルで一人ぼんやりしていたサラは、
「サラ?」
声をかけられて顔を上げた。
声がした方向を探して、そしてサラは目を見開いた。
あまり会いたくは無かった人物、どころか、会うことを想像すらしていなかった人物だった。
「やあ」
男はぎごちなく笑って軽く右手を挙げた。近くまで歩いてきてから、彼はサラの全身を見回した。
「わお」
男は感嘆の息を漏らした。
「綺麗だね」
「どうも」
サラはつっけんどんに返事をした。
男はやや顔をしかめ、それから手のワイングラスを見つめた。
「あー、僕とデートしてたときは、そういうの、見たこと無かったから」
サラはイライラと首を横に振っただけだった。
「デートかい?」
お願い、あっちに行って、と祈りながら、サラは男に向き直った。口を開きかけて、ふと、サラは目を細めた。男の左薬指に気付いたのだ。
「結婚したって聞いてたけど・・・」
もう別れたの?という質問を語尾に乗せて、サラは男の顔を不審そうに見やった。あるはずの結婚指輪が見当たらない。仕事で時々見かけることはあって、その時には指輪を嵌めていたはずだ。
「あー、いや、その・・・」
気まずそうに言い淀み、視線を落とした男に、サラは目を丸くした。
「信じられない。またやってるの!?」
サラは思わず声を荒げた。そして首を何度も振ってから、ふと、グラスの中身を飲み干した。少しぬるくなっていた白ワインが喉元を駆け抜けていった。
こんな男だったのだ。結婚指輪を外して、他の女性とデートするような。
苛立ちが募るのを、サラは懸命に堪えた。
こんな日に、最高に幸せな日に、過去の汚点が現れるなんて。
「サラ。もし君と、・・・君が先に」
「やめて」
鋭くサラは遮った。
こういう男は、誰とどう付き合おうが、必ず、繰り返すのだ。だからサラは、浮気をした男とは、二股を掛けられた男とは、決してよりを戻したことはない。
男に向き直り、今度こそ「あっち行って」と言おうとしたサラだったが、
「やあ、サラ」
再び彼女を呼ぶ声に、今度はサラはギュッと目を閉じた。
まずい。
よりによって、この男に、彼とのことが、バレてしまう。
彼はうまく、はぐらかしてくれるだろうか?
グリッソムもまた、サラに声をかけたあと、同時に振り向いた男に気付いて、一瞬パニックに陥りかけた。
初めて彼女に気付いた振りをして誤魔化そうかと思ったとき、彼はその男の顔を見て、だが考えを改めた。
コソコソするつもりはない。まして、この男の前で。
「やあ、ハンク・ペティグリュー君」
グリッソムは冷たい声で挨拶した。男が驚いたように瞬きをする。彼にフルネームを知られていることに驚いたのか、あるいは彼が声に含めた棘のせいか。
それからグリッソムはサラに近寄り、隣に立った。テーブルに肘をついて寄り掛かる。
「大した電話じゃ無かったよ」
サラが戸惑ったように彼の顔を見つめてくるのを、グリッソムはそっと微笑んで見つめ返した。
「ドリンク、お代わりいるかい?」
サラは口をぽかんと開けている。曖昧に首を振るので、イエスなのかノーなのか分からず、グリッソムは彼女の指からそっと空のグラスを抜き取った。
「もう、席に戻ろうか」
そう言ってちらりと男の方に視線を投げかけながら、グリッソムはサラの肩に腕を回した。
困惑の表情を浮かべ、サラはグリッソムに促されるまま、歩き始めた。
「サラ」
男の声に、グリッソムとサラは同時に振り向いた。
「誰にも、言わないから」
神妙な顔で、男は言った。
サラはしばらく黙っていたが、そのまま何も言わず、彼女を見下ろしているグリッソムを見上げた。
「行きましょ」
そしてグリッソムの腕を取って歩き始めた。

******

しばらくサラはモヤモヤしていたようだったが、オペラが終わり、ベラージオに着いてレストランで食事を進めるうちに、次第に機嫌を取り戻していった。
リムジンが着いたのがベラージオだと分かったときは、サラは知り合いに会いはしないかと少々ビクビクしていたようだったが、メインフロアからは死角のプライベートエリアに案内されて、徐々に落ち着いたようだった。
そして美味しい食事に美味しいお酒。
サラはグリッソムの冗談に良く笑った。お酒のせいかほんのり赤くなった頬がなんとも愛らしい。
メインディッシュが下がったところで、グリッソムはゆっくりと周囲を見渡した。
奥のステージで生バンドがゆったりとした曲を奏でている。メインフロアとプライベートエリアの間には、小さな空間が空いていて、恐らくダンスフロアなのだろう。何人かのカップルがゆっくりとその空間を漂っていた。
ウェイターが近づいてくる。サラがワインのお代わりを断り、水を頼んだのが聞こえた。
グリッソムはふとナプキンを置くと、おもむろに立ち上がってサラを見た。
「どうかな?」
右手を差し出すグリッソムを、サラは怪訝そうに見上げた。そのきょとんとした表情に、彼女が彼の意図を全く理解していないことを悟って、グリッソムは微かに笑った。
「一曲、お相手を」
グリッソムのその言葉でやっと、サラはダンスに誘われていることに気付いたらしい。
ますます顔を赤らめて、サラはブンブンと首を横に振った。
「あたし、ダンスは、苦手。ていうか出来ない」
両手をバタバタと振って、むしろ青ざめそうな勢いの表情を見る限り、本当に苦手なのだろう。
「私が得意だと思うか?」
グリッソムは自嘲気味に言ったが、サラはやはり首を振った。
「あなたは案外こういうことはソツがないもの」
グリッソムは仕方なく笑って誤魔化した。
「だめ?」
首をやや傾けて、上目遣いで彼女を見る。この彼の「お願いポーズ」に、彼女が弱いことは、もう勿論彼は知っている。
案の定、サラは軽く溜め息をつきながら、渋々と立ち上がった。
「ホントに苦手なんだから。笑いものになっても、知らないからね」
むすっとしたように言いながら、それでも、照れ臭そうに、サラはグリッソムの手を取った。
グリッソムは微笑みながら、サラをダンスエリアの隅に連れて行った。
サラの言葉は謙遜でも何でも無かった。
彼女は本当に踊るのが下手だった。いや、下手というより、それは単に「知らない」からのように思えた。
鼻歌は上手な彼女だ。リズムのセンスが皆無なわけではない。
そいうわけで、グリッソムは多少苦労しながら、何とか上手にリードして、辛うじて形になる程度にはなった。
しばらくして慣れてきたサラの肩から力が抜けたのを感じて、グリッソムは彼女との距離を詰めることにした。サラの腰に回した手にそっと力を入れて、彼女の身体を抱き寄せる。
視線を上げた彼女の目が、彼の青い目を捉えた。
鼻と鼻が触れ合うほどの近さで、二人は見つめ合いながら、しばらく曲に合わせて体を揺らしていた。
やがてサラはグリッソムの肩に頭を乗せ、うっとりしたように息を吐いた。
「君は吸収が早い」
グリッソムがそう囁くと、サラはちらりと目を上げた。
「先生がいいから」
微笑みあって、そして二人は優しく唇を重ねた。
「んん」
サラが満足げに吐息を漏らす。それからふっと笑って言った。
「こういうの、実はちょっと、憧れてたのよね」
言ってから恥ずかしくなったのか、急に手を離すと、サラは両手で自分の顔を扇ぎ始めた。
「ちょっと、休憩にしない?なんか、喉渇いちゃった」
そう言ってさっさとテーブルに戻ろうとする。慌ててグリッソムは彼女の腕を取ってテーブルまでエスコートした。
すかさずウェイターが持ってきた水のグラスを受け取って、サラはほとんど一気にそれを呷った。
やがてデザートとコーヒーが運ばれてきた。
二人は静かにそれを食べた。
「前も・・・こんなだったわね」
ふと、サラが笑いながら言った。
「ん?」
グリッソムが聞き返すと、
「デザートになったら、急に黙りこくっちゃって」
サラはスプーンでグリッソムを差した。
「ああ」
思い出して、グリッソムもまた苦笑した。
「緊張したんだ」
スプーンを口にくわえたまま、サラはちらりとグリッソムを見たが、特に何も言わなかった。あの時お互いがどんな心理状態だったかは、時々話してきたからもう分かっていることだ。
それでも、もうあれから1年も経ったのかと、グリッソムは感慨深かった。
いや、彼にとってはまだ1年しか経っていないのかという感覚さえあった。もう彼女とは、ずっとこうだったようにさえ錯覚しそうになるほどだ。
彼女のいない日々が、生活が、もう想像出来ない。
食材を買いに行けば、野菜ばかり選んでいた。彼女のために大豆製品を買いためたり、テレビやパソコンで、新しいベジタリアンレシピを見かけるとメモしたりプリントアウトしたりするようになった。野菜ばかりだと痩せてしまうので、カロリーを摂らせるためにフルーツをたくさん買うようになった。
面白い話を聞けば、彼女に話したかった。素敵な引用を思いつけば、やはり彼女に教えたかった。実験で大発見をしたときは、真っ先に彼女に伝えた。興奮する彼を、彼女はいつも眩しそうに見た。
もう彼女は、彼の日常に、いや、彼の人生に、切っても切れぬ存在として絡みついていた。彼女と離されることは、もはや想像も出来ない。想像することすら苦痛だ。
・・・分かっていた。こうなると、分かっていた。
だから、彼は、恐れたのだ。彼女を受け入れることを。
だから、何年も、彼は渋った。一歩を踏み出す勇気を、持てなかった。
だがこれは、思っていたほど悪くは無かった。こんなにも、心を誰かに開き、愛して、愛されることの素晴らしさを、彼女が教えてくれた。
「神妙な顔しちゃって、大丈夫?」
サラの声に、グリッソムは我に返った。
「ああ、大丈夫だ」
にこりと笑って言って、グリッソムはテーブルの上に手を伸ばした。
コーヒーカップに添えた彼女の手を上から優しく握った。
「幸せを噛みしめていた」
サラは両方の眉を小さく上げて、照れたように微笑を浮かべた。

******

特に申し合わせるでもなく、ディナーを終えた二人はグリッソムの家へと帰った。
少し肌寒い夜だったので、暖炉に火を入れた。二人はその前の床に直接座り込んで、肩を寄せ合いながら、紅茶を飲んでいた。
オペラの感想をひとしきり言い合ったあとで、ふと、静けさが訪れた。
薪のはぜる音がリビングルームに響き渡る。
グリッソムはふと首を回し、視界の隅にキッチンカウンターが入ったのに気付いた。
そしてそれが、あることを彼に思い出させた。
「そうだ」
急に動いたグリッソムに、驚いてサラが紅茶をこぼしかけた。
「あ、すまん」
慌てて謝りながら、グリッソムは立ち上がった。
「ギルバート?」
「ちょっと待ってて」
小走りでキッチンへ向かったグリッソムが、ゴソゴソと棚を開け閉めしてから戻ってくるのを、サラは怪訝そうに目で追っていた。
「肝心な物を忘れていた」
「なに?」
グリッソムはニコニコと笑ったまま、またサラの隣に腰を下ろした。
「君に是非受け取って貰いたい物が・・・」
グリッソムが小さな箱を差し出すのを、
「ギルバート」
しかしサラは強く遮った。
「あたしもう、これ以上、貰えない」
眉をひそめて首を振る彼女に、
「高価な物じゃないから」
グリッソムは宥めるように言ったが、サラは顔をしかめたままだった。
「あたしホントに、何にも用意してないの」
「構わないよ」
「そんなにたくさん貰えない」
グリッソムは小さく溜め息をついた。片手でこめかみを掻いた。
「あー、本当は、こっちがメインなんだ」
「は?」
「ネックレスは、おまけだ」
「おまけ」
サラの眉がますます寄った。無意識にだろうか、右手が首元のネックレスに触れた。
「時が来たら、これを絶対渡そうと決めてたんだ」
サラが片方の眉を上げて何かを考えたが、直ぐに首を横に振った。
・・・そういうことはあり得ない。高価な物では無いと、彼が言ったではないか。
「今度こそ、君に受け取って欲しい」
「今度こそ?」
サラは首を傾けながら、グリッソムの顔と、彼の持つ小箱を見比べた。
「見るだけ、見てみてくれないか?」
グリッソムが箱を目の高さに持ち上げる。
「君が受け取ってくれたら、それが私にとってのプレゼントになる」
しばらく唇を噛んでそれを見ていたサラだったが、やがて観念したように箱を受け取った。
箱は雑貨屋などで買える、シンプルな白い箱だ。確かに高価そうではない。
包み紙はなく、リボンもついていない。
サラは箱をちょっと振ってみた。軽くはないが重くもない。そして何か固い物が中でぶつかり合う音がした。金属だろうか。
サラはちらりとグリッソムを見た。
彼は期待に満ちた目で彼女を見つめている。何度か唇を舐めるのは、彼も緊張しているのだろう。こっちが本命の贈り物だと彼が言ったとおり、ネックレスの時より遥かに緊張しているようだ。
思い切って箱を開け、中を覗いて、サラはしばらく無言になった。
それから、長い時間、サラは目を閉じていた。
不安になって、グリッソムが口を開こうとしたとき、ようやくサラは目を開き、箱を床に置くと中の物を取り出して目の前に掲げた。短いチェーンとリングで繋がった二つの金属が揺れる。
「あー」
グリッソムが咳払いをした。サラがちらりと視線を上げる。
「もう、早すぎるとは、言わせないよ」
サラは数秒間彼を見つめたあと、再び手に掲げたその金属に目を戻した。
暖炉の火の明かりが、それに反射して温かに光った。
サラはゆっくり大きく息を吸い、そしてゆっくり吐き出した。
そして、その細長い金属とリングで繋がっている別の金属の方を軽く指で揺らした。
「これは?」
「ああ、それは・・・」
グリッソムは詰めていた息を静かに吐きながら答えた。
「君のはもう、その、結構年季が入っているようだったから」
その言葉に、サラはようやく笑った。
「確かに」
学生時代に買ったキーホルダーの塗装はほとんど剥げてしまっていた。しかし特に使用上の不便はないので、サラはずっとそのままにしていた。物持ちがいいと言えるのか、あるいはただの貧乏性なのか。
サラは花のような形をしたチャームの方を指にとって見定めた。
「これは、花?・・・いや、四つ葉のクローバー?」
「そう。幸運のお守りだ」
サラはしばらく、クローバーのモチーフにかたどられた金属を指で撫でていた。
「受け取ってくれるか?」
グリッソムは静かに尋ねた。声が掠れ気味になったのは、不安の表れだろう。
サラは撫でていた指をリングで繋がった先へ滑らせた。
鍵の形をゆっくりなぞり、それから急に目をギュッとつぶった。
「サラ?」
ますます不安そうに、グリッソムは身を乗り出した。
サラが目を開けると、グリッソムの心配そうな、不安に揺れる瞳が目の前にあった。
彼女の瞳を見つめ返したグリッソムは、その目が涙で潤んでいるような気がした。
「分かった」
サラはそう短く言った。喉が詰まって、それしか言えなかったのだ。
「いい?」
目を輝かせて、グリッソムが聞き返す。
サラはもう一度頷いた。
「ええ」
そして、手の中にそれを握り込んだ。
「ありがと」
「使ってくれる?」
「ええ」
グリッソムの顔に笑みが広がる。
「好きなときに、いつでも来ていいから」
グリッソムは両手で、鍵を握るサラの手を包み込んだ。
サラはもう一度深呼吸をした。
「分かった」
「良かった」
ふうーっと、グリッソムは大きな息を吐き出した。
「そんなに緊張したの?」
思わずサラはグリッソムの顔を覗き込んだ。
「だって、一度は突き返されたプレゼントだからな」
グリッソムが少し茶目っ気を込めて言うと、サラはばつが悪そうに笑った。
それから手の中の合鍵を数秒見つめ、またグリッソムを見た。
「大事にする」
グリッソムもまた、彼女のチョコレート色の瞳を覗き込んだ。
彼女の頬に手を添え、指で何度か撫でたあとで、グリッソムは優しく唇を重ねた。
すぐに、二人の姿は暖炉の前から寝室へと消えた。

彼は彼女の熱に煽られていた。彼女の指が、彼の背中で踊り、彼は彼女にリズムを与えた。互いに覗きあう瞳には原始的な情熱の炎が激しく燃えさかっていた。言葉でない言葉で、愛を語った。
共に大海原へ漕ぎ出て、共に波を作った。大きな波間に弄ばれ、たゆたった。
共に理性を失う間際に、彼は彼女の瞳が潤むのを見た。彼もまた全身を駆け抜ける圧倒的な幸福感に、肉体的な興奮とは別の感傷が胸にこみ上げるのを感じた。彼の目頭もまた、熱くなった。
「サラ。・・・愛してる」
指を絡め、唇を絡め、互いの熱情の名残が去るのを、二人は静かに待った。
「愛してる、ギル」
言葉一つでは足りないほどの愛が、互いの体に浸透し尽くすまで。

******

グリッソムはぼんやりと目を覚ました。
直ぐに、隣にあるべき温もりを求めて、腕を伸ばそうとした。
「おはよ」
はっきりとした声が聞こえて、グリッソムは寝惚け眼を懸命に見開いた。
「・・・やあ」
寝起きの掠れた声で答えながら、グリッソムはモゾモゾと体の向きを変えた。
サラは彼の方に横向きになって、枕に右肘をつき、起こした頭を支えていた。彼を覗く瞳にはすでに明るい光が灯っている。寝起き直後ではないのは明らかだった。
「眠れなかったのか?」
僅かに眉を寄せて、グリッソムは尋ねた。
「目が覚めちゃって」
サラは優しく言いながら、左手を彼の額に伸ばした。張り付いた髪をそっと払い除ける。
「悪い夢か?」
ますます眉を寄せたグリッソムに、サラは小さく息をついた。
「そうじゃない」
それでも不安そうに自分を見上げるグリッソムに、サラは微笑んだ。
「ホントに、ただ目が覚めちゃっただけ」
そう言いながら、彼の眉間に寄った皺を指で優しく広げるかのように撫でた。
「ね、心配しすぎないで」
「・・・分かった」
仕方なくそう答えて、グリッソムは彼女の身体ににじり寄った。頬を彼女の胸元によせる。サラの手がそっと彼の頭に乗った。髪をゆっくり撫でる優しい手つきが、彼は好きだった。
「あなたとこうしているなんて、やっぱりなんだか、不思議」
サラのうっとりとしたような声に、グリッソムは微かに笑みを浮かべた。
「私もだ」
彼女の腰に手を回しながら、グリッソムは彼女の鎖骨の狭間に唇を押しつけた。
サラは何も言わなかったが、彼女の喉が小さく鳴ったのを彼は聞き逃してはいなかった。
「もう君と、一緒にいない日々なんて、想像も出来ないよ」
グリッソムは囁いた。
「私の残りの人生に、君がいないなんて考えられない」
その言葉がするりと口をついて出た瞬間、グリッソムは自らの言葉に驚いて息を飲んだ。
僅かに動きを止めて目を見開き、それからさりげなくサラの様子を窺い見た。
だがサラは、その言葉を受け流してくれたようだった。うっとりと目を閉じたまま、一定のリズムで彼の髪を撫でるパターンが、乱れることはなかった。
悟られないように小さく安堵の息を漏らして、グリッソムは彼女に覆い被さった。彼女の素肌に何度も軽くキスを落としていく。
「んん、ギル」
サラが鼻から出したような声を漏らした。グリッソムは唇を滑らせ、首を登ると、彼女の耳たぶを舐め、それから耳の後ろに鼻を押しつけた。
「するの?」
サラの身も蓋もない質問に、グリッソムは声を上げて笑い出した。
「君ほどムードを台無しにする女性はいないよ」
しかしサラはなぜだか苦笑して首を振った。
「・・・あなたに言われたくない」
「なぜ?」
グリッソムは小首をかしげた。たったいま、彼が作った「ムード」をぶち壊したのは彼女の方ではないか。
サラは苦笑したままで首を振り続けた。
「寝起きはイヤなの、知ってるでしょ」
グリッソムが口を尖らせるのを見て、今度はサラが声を立てて笑った。
「そんな顔しても、ダメ」
頬を膨らませて、小さく唸りながらグリッソムは仰向けに倒れた。クスクスと笑いながら、サラは彼の胸に頭を乗せた。
「今日は、これからどうする?」
サラはとても現実的な声を出した。グリッソムはまた小さく笑いながら、彼女の肩を腕で抱いた。
「時間が来るまで、こうしてるさ」
「ハンクは迎えに行かなくていいの?」
その名前が出た瞬間、愛犬の方のことだと分かっていても、一瞬グリッソムは体を硬くした。
それに気付いたのか、サラが小さく溜め息をつくのが分かった。
「あっちは・・・放っておきましょ」
あの男が「誰にも言わないから」と言ったのを、サラは大して信じてもいなかったが、逆を言えばサラだってあいつの秘密を握ったのだから、お互い様だ。多分彼は、「だから君も誰にも言わないでくれ」と後に続けたかったに違いない。
もっとも、サラはあの男の秘密をどうこうするつもりはなかった。それよりも金輪際関わり合いたくなかった。
サラが小さく首を振ったので、グリッソムは気遣わしげに彼女の頭を見下ろした。
「なんで、誤魔化さなかったの?」
小さな声でサラが尋ねた。グリッソムは、彼の胸に置かれたサラの左手を自分の手でそっと包んだ。
「コソコソはしたくなかった。特に、彼の前では」
サラは顔を上げて彼を見た。見下ろしていたグリッソムの視線と合った。
何も言わずに、サラは顔を戻した。
「で、ハンクは迎えに行かなくていいの?」
サラがもう一度尋ねた。
「今何時だ?」
グリッソムは首を伸ばして、目覚まし時計を見た。
「昼までに行くと言ってあるから、まだ大丈夫だが・・・」
サラはグリッソムの言葉の途中でむくりと起き上がった。
「ハンク迎えに行って、散歩に行かない?」
「で、また例のマフィンか?」
サラは笑いながら軽くグリッソムの胸を叩いた。
「それもいいわね」
そして勢いよくベッドから足を下ろし、立ち上がるとバスルームへ向かった。
「シャワー、一緒はダメ?」
ダメだと分かってはいたが、僅かに期待を込めてグリッソムは彼女の背に向かって尋ねた。
サラは振り向きもせず、
「だーめ」
後ろ手に手をひらひらと振った。
合鍵を受け取って貰うまでに1年。
一緒にシャワーを浴びてくれるまでは、果たして何年必要なのだろうかと、グリッソムはややふて腐れて息をついた。
やがてシャワーの音が聞こえてきた。サラがハミングする声も聞こえる。
それらの音を心地よく聞きながら、グリッソムはふと、先ほど自分の口をついて出た言葉のことを思い返していた。

ーー私の残りの人生に、君がいないなんて考えられない

翻ってそれは、残りの全ての人生を彼女と共にありたいという願い。それは、つまり・・・。
グリッソムは再び自分の言葉に驚いていた。
まさか自分が。
この私が、そんな気持ちになるなんて。
グリッソムは起き上がり、ベッドから降りた。
シャワールームのドアの近くに寄り掛かり、曇りガラスの向こうを眺めた。
彼女のシルエットが動き回るのを、ただ見つめていた。

私はいつか、彼女にプロポーズをするのだろう。
いつになるか分からないが、きっといつか、その時は来るだろう。
だが彼女は、恐らくまだ、そんなことは露も考えてはいまい。それでも、その可能性を全く否定しているわけではないことは、彼女自身がうっかり漏らしてしまっている。
だからきっと、チャンスはある。
ただ、今はまだ、早すぎる。
なにせ、やっと合鍵を受け取って貰えたばかりなのだから。

壁により掛かっていた体を起こして歩き始め、グリッソムは寝室のドアを開けた。
リビングルームに向かいながら、ふと彼は思った。

一緒にシャワーを浴びるのと、プロポーズをOKしてもらうのと、果たしてどちらが先になるだろうか?

グリッソムは小さく笑った。
それはきっと、神のみぞ・・・いや、サラのみぞ知る、だ。

ともあれ、彼には一つ、叶えたい夢が出来た。
どんなシナリオが待っているか分からない。どんなシナリオがそこへ導いてくれるかも分からない。
だが確かに、彼には夢見る幻想が出来た。

今しばらくは、ひっそりと、この胸に納めておこう。
迂闊に口に出せば、きっと、儚く泡と消えてしまうだろうから。

正しい「その時」が訪れるまで。


END.

AN2 : ハンク友情?出演(笑)。そして彼は懲りていないようです。サラとハンクは本当に付き合ってたのか?という議論もあるようですが(サラが再三「恋人じゃない」と周囲に言っていたので)、私は、付き合っていたと解釈しています。どこまでいってたかは・・・ま、そのうちに。
グリッソムがこんなに早く結婚を意識したことには、反対意見もありそうですが、いろいろと今後の展開、特に彼が実際にプロポーズした状況を考えると、「しばらく前から実は考えてた」っていうのがしっくりくるなあ、と思って、こうなりました。
『正しい「その時」』というのが、キーワードですね。果たして、あのシーンでのプロポーズは、「正しいとき」だったのか?どう思いますか?
いや、シーンとしては、オチを含め、最高のシーンでしたけどね。