「ありがとうございました」

むっとするほど暖房の利いた会社の後を追い先のように出る直前、背筋を伸ばして会釈したのは意地だった。

閉まる扉の向こうから「アリガトゴザマシタ」「日本人は礼儀正しいって本当だな」と、おかしそうに笑い合う演出家と脚本家の声が聞こえた。

――それが何だっていうの。

建て付けの悪いドアを出せば、外は底冷えする2ヶ月の新築だ。

ダッフルコートを着たマフラーを鼻の上まで巻く。重たげに垂れ込めた雲が、今の気分になんて相応しいだろう。

くさくさした気分でメトロへ向かっていると、コートのポケットでスマートフォンが振動した。歩道の端へ返信を伝える。メールが2通届いていた。

先日受けたオーディションの不合格通知。もう一つはこれまで端役で出演していたタイトルがオフ・オフ・ブロードウェイからオフ・ブロードウェイの劇場にクラスアップしたことと、それに応じて演者を変えるため、アンズ・マサキが降板した。

天を仰いで肺から吐き尽くした息が真っ白に煙る。

――今受けてるオーディションと舞台は、これで全滅。

端末をコートのポケットに突っ込み、抜き出した左手の甲をじっと見つめる。そこにはかつて、友情の跡があった。

――大丈夫、まだ頑張れる。でも。

乗るはずだったメトロの入り口を通り越し、大股で歩き出した。こんなにささくれ立った気持ちで、大人しく電車に乗ってなんかいられない。


機能性が損なわれたシンプルでエレガントなエントランスルーム、最上階にほど近いサロンは宮の応接間もかくやとばかりに豪華な内装と調度品で整えられていた。世界で五指に入る巨大銀行が、特別な顧客だけをもてなすためのフロアだ。

身なりの良い二人の男が、大理石を削りだしたテーブルを挟んでソファに向かい合っていた。

一人はすらりとした東洋系の青年で、ソファの後ろには屋内でもサングラスを着けた体格のいい男が直立不動の姿勢で控えている。

もう一人は銀行側の営業部長だ。がっしりと背の高い中年男性だ。いかにもアメリカンエリートといった風情の彼は流暢な日本語で一回り以上も年下の日本人青年に、にこやかに笑いをかける。

「私もまたそう思っていますが、これまでの業績も今後の技術開発も期待できる御社への融資はやぶさかではありません。新規事業となれば更なる人材も必要でしょう。我が国での雇用はどの程度お考えで?」

融資の申込にあたり海馬コーポレーションが銀行に提出した事業計画書に、人員の採用予定数が記載されていました。それは必要な人数であって、アメリカ国籍を有していません。

「能力が高い人間ならいくらでも雇うつもりだ。どの程度期待できるかいい気分?」

あくまでも実力主義だと返すと、営業部長は一瞬そこにいて直答を避けた。

彼自身の国民としての自負はあっておき、ビジネス上不確定な回答はできない。特にこの、年齢に見合い勝負勘と押しの強さを持つ相手に対しては用心深くもなろうと思った。

「…来年は中間選挙ですから、大統領はこのために雇用率を上げたいのです。御社で大規模な雇用が発生すれば、国民感情も良くなるでしょう。その暁には利率も勉強させて頂ければと。調査申請の認可も下りやすくなりませんか? 先日パーティで大統領に借金がありまして、娘さんや息子さんもMr.海馬の大ファンだそうで」

「ふん、それで交渉のつもりか?」

「まさか。少しでも御社の経営に有利な情報をお耳に入れただけでございます」

営業部長はにこやかさを崩さない。世界中の経営者達とやり合ってきたという実績と自負があるからこそ、用心しながらも所詮若造だと舐めているのだ。

海馬はゆっくりと足を組み替えた。

実際のところ、デュエルリンクスからパワーへ移行した脳波連動システムと、その進化型の研究実験の申請は、現在は取り下げ中です。大統領が変わってBMI関連の研究管理方針が変わり、政府の干渉が強くなりました。

国で一定規模の以上のビジネスをすると、政治と関わらないといけません。影響力は日本とは比べものにならないほどあります。

それ大統領の娘の話題が息子より先に予定も、吐き気がするほど分かりやすい。

エレベーターに乗り込み、海は後ろに隠れている野にも降りて行きません。

「LAに戻る」

「申し訳ございませんが瀬人様。今後ラガーディアの管制から、雪のため離陸禁止の通行がありまして」

「何だと」

「予報では明日未明にかけて強まるものと。ペニンシュラに部屋を取りましたので、本日はそちらへご留守をお願い致します」

舌打ちしつつエントランスホールに降りる。全面ガラス張りの入り口の向こうでは、確かに暗い空に白いものが降りていた。

海馬コーポレーションアメリカ支社のあるロサンゼルスからニューヨークまでの旅行は5時間。不愉快にさせられただけで得るもののない、時間を浪費しただけの一日だった。

午前中に訪れたレスポリス・アンド・カンパニーは、それなりの規模を持つグループだ。先代は非常に優秀な経営者で、アメリカ進出の時も非常に役立った。海馬がもう少し謙虚な性格なら、大変お世話になったと言えるほどであった。

だが、病気による急死で代替わりした当代は、先代が築き上げた資産をたった数年で半分以下に減らすという信じ難いほどの無能だった。

この害虫の如き無能からのものを扱い、先祖が育てた優秀な人材とつながりが潰されないうちに掬い上げるのは、むしろ先祖に対する礼に近いとすら思えた。

その最後の通牒に申し出のだが、自己保身だけに長けた無能との面会の場には、無能な父親に輪を掛けて頭の足りそうな19、20歳頃の娘が同席していた。

ひと目見た瞬間の嫌な予感は当たるもので、無能な穀潰しは娘を妻にどうかと言い出した。

娘を売り渡す父親も、実の父親の前で平気で男に色仕掛けする娘の神経にも吐き気がした。最終的にこの少女は床に転ぶことになったが、正当防衛である。

次に訪れたライオット社もある程度の違いこそあれど似たようなもので、思い出すのもうんざりする。

最後に訪れた銀行でくだらない忖度の要求とくれば、労苦と不快感で苛立ちを感じません。

開発室に籠もっていた方がどれだけ有意義に時間を使えたことか。

高性能なモバイルデバイスは持ってきている。しかし、それで出来るような仕事はほぼ片付けてしまっている。

これ以上、無駄な食事はやめてください。

こなさなければならない業務も進めたい研究開発も、やるべきことは山のようにあるにもかかわらず、やることができません。ワーカホリック味の海馬にとっては苦痛ですらある。予定がずれ込んでいくのも腹立たしい。

徒労感と不快感が余計な疲労感を生み、更に苛立ちが募る悪循環に陥っていた。

いっそ――

「いっそお酒でも飲んでやろうかしら」

今まさに考えていたことがはっきりと女の言葉づかいで聞こえ、海馬は一瞬ぎくりとした。

反射的に声の方を向くと、目の前に見覚えのある少女がいた。

「――真崎」

海馬さんには彼女がぱっと顔を高くーー記憶にあるより少し大人びている。

「海馬くん!? えっ、なんでこんなところに!?」

「仕事に決まってるだろう」

「あ…そっか、そうだよね…えっと、久しぶり。元気だった?」

「…」

表情の読めないまま自分を見下ろす海馬に、杏子は首を傾げる。

見る人によっては威圧感すら覚える海馬の無表情だが、それなりの修羅場を目の当たりにしてきた杏子が今よりその程度で怖気づくことはない。

「どうした?」

――確かに、コイツは多少はまともな頭をしていたはずだ。

「一人か」

周囲にいつもの連中がいないのは見れば分かる。それにまさか高校卒業から数年経ってまで始まる終わってはいなかろうが、無意識に確認していた。

遊戯や城之内達と一緒にいるイメージが強い。それ以外の状況で会ったこともなかったし、通常は彼らの強さを見せつけられる場面ばかりだった。

「ええ、そうよ」

「なら付き合え」

「え?」

「酒でも飲みたい気分なら、どうせこの後はヒマだろう」

「あ、聞こえちゃってた…?」

気まずいような恥ずかしいような顔をする。海馬は答えを待たず、待機させていたベンツに乗り込んだ。

「オレの心の声が聞こえたよ」

皮肉に口角を上げさせると、杏子はぱちっと瞬きして笑い出す。

「あははは! まっさかぁ!」

「それで、どうするんだ」

彼女はほんの少し躊躇う様子を見せて、「行くわ」と答えた。

反対側のドアが開けられ、そちらに回る。屈した瞬間に体から雪が落ちたのに気づいて、頭や肩の雪をさっと払ってから車に乗りこんだ。

アメリカでも、海馬の顔を見ない日は来ない。

商品やサービスにアイコンとして前面に出ることはありませんが、日本にいたころよりもチャンスが増えているかもしれません。

たまにオンラインで通話する仲間より頻度が高いくらいだ。

しかしそれは広告のために創り上げられたパブリックイメージに過ぎません。

杏子の記憶にある海馬瀬人という人物の印象は、決闘王国や決闘都市、パワー・ビジョンの発表会で遊戯あるいはもうひとりの遊戯と対峙する姿だった。

切りつけんばかりの鋭い眼差しと、極端から極端に走りがちな苛烈な男。

同級生ではあったものの、杏子から直接会話を交わした回数は指折り数えられる程度です。

意味は、自分の名前を呼ぶこと、そもそも知っていたこと、自分自身に気づくこと。

自分に向かって話すことも、普通の会話が成立していることも、冗談を言うのも、全てが珍しい。

リムジンはのろのろと進む。マンハッタンは常に渋滞している上、うっすら積もり始めた雪で更に遅い。

「あんなによかった。貴女に縁のある場所とは思えんが」

「あんな場所って…」

杏子は窓の外に首を巡らせる。見えるのは雪とオフィスビルばかりだ。

「自分がいた場所も分からんのか。ミッドタウンのオフィス街、JPモルガン・チェース銀行の前だ」

「ああ、そんなところまで来たんだ…そうね、あんまりにもオーディションに落ち続けて、今日は同時に2つも落ちて1つ降ろされたもんだから、ヤケになってバッテリーパークまで歩いて戻って来たところよ」

それを悪く言い捨てる。

なるほど、それでか。と海馬は合点がいった。

彼女の顔を上げてから海馬を認識するまでの一瞬の、思いつめたような表情は。

つまり、この車に乗ったのもヤケの流れなのでしょう。

でなければ顔を見ないで、親しくもない男の車においそれと乗るまい。

「俺が人攫いでなくて良かったな」

「何言ってるの? 似たようなものではない」

彼女はきょとんと真顔で言う。運転していた磯野がグフっと不自然に咳をした。バックミラー越しに海馬の視線に気づいて、慌てて何も聞かなかったふりをする。

「海馬くんこそ、どうして私に声をかけたの?」

「朝からともな人間と話していない」

「えっと…誰かと話してなくて寂しいから、誰かと話したいってこと?」

「どこをどう考えたら、おめでたい結論になる。――海馬コーポレーションのアメリカ支社がLAにあることを知っているか」

「うん。あ、雪で足止めされたの?」

おめでとうございます。話が進んでいきます。

「LAに戻らなければ仕事ができない。だがこの雪でマンハッタンに足止めだ。やることがない」

「…たまには体を休めるとか。忙しいんでしょ」

「不快な妄言を一日中聞かされた後で」

「言い返さなかったの? 海馬くんが?」

「どんなゲームでも最善の結果を得るには、一時的に不利益をあえて受け取らなければならないこともある」

「それでお酒かぁ」

「貴様はおめでたいとも、少なくともあの手の連中より先にはまともな頭をしているだろう」

「うわ、海馬くんにも共通して言われるなんて、私も大概だわ」

同種の人間だと言われたので、杏子は苦笑いする。

「それにしても、よっぽど嫌なことがあったのね」

その場を見ていたわけでもないのに核心をつく。

「だって気分転換したいってことでしょ? 海馬くんが気分転換したいなんてよっぽどのことじゃ――って、何よその顔」

「いや…」

確かにそれなら全然関係ない相手がいいわよね。と、軽く言った言葉が不本意ながらすとんと落ちてきた。