ミネラルウォーター二本を空にして、ようやく楽になってきた。そろそろまともに歩けそうな気がする。
「もう大丈夫。付き合わせちゃってごめん、そろそろ帰るね」
「――そうか。だが今の時間に出歩くのはやめておけ。この雪では車も出せん」
言われて窓の外を見ると、摩天楼が並び立つマンハッタンの夜景が雪に閉ざされていた。いつもは列をなしている車のライトも、今は白い闇の中にちらっと見えるだけだ。
「ニューヨークで雪の夜中に、女一人で放り出すほど人でなしではない。泊まっていけばいいだろう」
「それは…」
精神的にも肉体的にも見るからに弱っているくせに、意地を張る杏子に苛立ちが募る。
襲ってくれと言っているような状態でどうして無事に帰れると思うのか。どうせまともな判断などできないのだから、こちらが出してやった厚意に従っておけばいいのだ。
「構わないと言っている」
ややきつく睨むと、彼女はようやく頷いた。
「…ありがとう。じゃあ、このソファ借りるね」
「ソファだと?」
「だってベッドルームは海馬くんが使うでしょ。まさか、ちゃんと泊まる権利のある人のベッドを奪うわけにもいかないじゃない。柔らかいし、私の体格なら大きさも大丈夫よ」
スイートにベッドルームが一つだけということはありえない。サブのベッドルームがある。
いや。そういうことではない。リビングとベッドルームを隔てる扉に鍵がかけられるのは、ベッドルーム側からだけだ。
「…このリビングはベッドルームから自由に出入りできるが」
それがどういうことか、分からないでもあるまい。
「でも廊下は鍵がかかってるから、変質者が入ってくることはないでしょ」
「だがオレは自由に行き来できる」
ーー海馬くんが変じゃないとは言わないけど、変質者の"変"ではないのよね。
どちらかというと、奇人変人の方だ。
「それはそうだけど、泊まらせてもらうんだもん。しょうがないじゃない。いいって言ったの、海馬くんでしょ」
海馬はこれ見よがしに嘆息する。
「――なるほどな。貴様の言い分は分かった。つまり貴様にとって、オレは同じ部屋で寝ても何の心配も警戒も必要ない相手というわけか。男とは思っていない、と」
「え? あ、いや、その、えっと、そういう意味じゃなくて、その…海馬くんなら、信頼できるし…」
「信頼だと? オレの何をだ。貴様に手を出さないと?」
海馬がゆらりと立ち上がる。急に剣呑な空気になり、杏子は本能的に身を引いた。
「貴様がイメージするオレは、随分と高潔なようだな。――オレは欲しいものを手に入れるためには、手段を選ばない男だったはずだが?」
海馬が一歩踏み出す。二人の間にあった空気の塊に押されるように下がった杏子の背が、ソファの角に当たって追い詰められる。
かつての海馬が、勝利の為にあらゆる手段を厭わない卑劣漢だったのは確かだ。しかし、数々の闘いを経て変わっていくのを見てきた。何より――
「だって――だって、別に、私に興味ないでしょ」
そのはずなのに、何故ロックオンされているのか全く分からない。
「興味か――なければ車に乗せないし、失せれば途中で降ろしている」
傲慢にせせら笑う海馬に、杏子は必死で思い出す。
そういうことだったの? でもそんな素振りなんか全然なかった。
海馬は彼女に覆いかぶさるように、ソファの背に両手をついた。混乱する明るい瞳を覗き込む。
「大して親しくもない男とホテルのバーで酔い潰れるほど酒を飲んで、部屋まで連れ込まれるとは、迂闊にも程があるな…クラブだで懲りたようなことを言っていたが、何も学んでいないようだ」
「それは――でも、だって海馬くんだし…」
この期に及んでまだ言い張るか。とどめの一言を聞いたらどう反応するのか――
至近距離に顔を寄せると、彼女は目に見えて怯む。
その隙を逃さず、低く色気のある声で言った。
「I want to fack you」
これ以上ないというほど杏子の目が見開かれ、戸惑いとショック、羞恥と怯えが浮かぶ。
信頼を築くような関係性は構築してきていない。
彼らが信頼や友情を力の糧にするのは勝手だが、海馬自身が巻き込まれるつもりはさらさらなかった。
それでも信頼があると言うなら、それは思い込みや妄想の押しつけに過ぎない。
杏子は戸惑ったまま真っ赤に染まった顔で海馬を見上げ、もの言いたげに口を開いては、何も言えずに閉じる。動けないのか生来の気の強さゆえか、視線だけは外そうとしない。
――さすがにここまでされれば懲りただろう。
彼女の混乱した反応は、意地の悪い気分になっていた海馬の溜飲を下げるのに十分だった。ゆらりと体を起こし、彼女から離れる。
「隣の部屋に――」
「いいわ」
サブベッドルームがある。と言いかけた言葉が、か細い声に止まった。
「ら、乱暴にしないで…」
互いに正気を疑うような、気まずい沈黙が部屋を支配する。
酔いはとっくに冷めているはずだった。ならば正気のはずである。
海馬は、彼女がうろたえ、それから烈火の如く怒り出すとばかり思っていた。しかし実際には、俯く頬を赤く染めるだけだった。
試しに手を伸ばしてみると、今度は逃げようとしない。
指が頬に触れる一瞬だけ、びくりと身を竦ませたが抵抗もしない。
頬の輪郭はすべらかで手触りが良い。
伏せた長い睫毛が小刻みに震えて、目元に一本ずつ影を落としているのが、やけにはっきりと見えた。
頬から下へ滑らせた指が唇にたどり着き、軽く押しただけでふっくりと沈み、吸いつきたくなるような衝動に襲われる。薔薇色の柔らかくなめらかな唇。
そう感じた自分に驚きながらも、行動に躊躇いはなかった。
押し当てた唇は頼りないほど柔らかな感触がした。そのくせ固く閉じて侵入を拒むのが、いかにも彼女らしくておかしい。
「口を開けろ」
「っ…」
下唇に軽く歯を立て、ほとんど囁くように言う。
錆びついたドアのようにぎこちなく緩められた隙間から舌先を押し込む。舌同士が触れた途端、バネ仕掛けのように奥へ逃げ込んだ舌を捉えて絡ませる。
「ぅ、ンン…」
言葉や態度でどれほど強がろうと、体は正直に経験を語る。
キスの仕方も知らないのは明らかだった。細い指先が白くなるまでソファの座面を掴んで身を強張らせているのが視界の端に入る。
慣れているとは言わないまでも、多少の経験はあるとばかり思っていたので少し意外ではあった。
「ん…ふ、ぁ…」
ほんの初歩的なキスから解放してやると、うっすら開かれた瞳と唇が潤んでいる。スーツの前がきつくなるのを感じた。
「悪くない」
「え?――きゃっ!?」
軽くかがみ膝の下に腕を入れて立ち上がる。
いきなり抱き上げられた杏子が小さく悲鳴を上げた。
約束通り静かにベッドまで運ぶ。シーツに下ろされた彼女は、顔を伏せたまま震える手をブラウスのボタンにかけた。
恥じらいと怯えを滲ませてボタンを外していく様子は、思った以上にホットだった。
内臓がよじれるような感覚とともに見入っていた海馬は、はっと我に返ってその手を掴む。
「ストリップも悪くないが――こちらの楽しみを奪わないでもらおうか」
「な、なに言ってるのよ…」
「分からないなら、それでいい」
彼は彼女の細い肩を掴むようにして、ゆっくり押し倒した。
海馬の片手が、服のボタンの続きを外していく。
長い指先が器用に動くのを、杏子はぼんやりと眺めていた。
海馬の要求は信じられなかったが、自分の答えもまた信じられなかった。しかし同時にほっとしてもいた。
首筋を吸われる。
それはおそらく気持いいのだろう。どこか他人事だった。
反応が鈍いことに気づいた海馬が顔を上げた。
「あまり気持ち良くないか」
「…手慣れてると思っただけ。あなたは女の人も選び放題ですものね」
自分でも良くないと思っても、投げやりな気持ちが言葉に出てしまう。
海馬が珍しく少し考え込むような、思い出そうとするような様子を見せた。
「…確かに慣れはしたが、さほど選んだ覚えはないな」
「?」
性交渉も帝王学の一部だった。
公の場でのエスコートから様々なセックスの手順といった一般的な知識から、トラブルになる女の見分け方や、セックスドラッグの種類と盛り方と避け方。
全て実技学習だったのでセックスも経験済みだ。それらは女性遍歴の武勇伝ではなく、単なる事実に過ぎなかった。
淡々と語る海馬に、杏子は赤面を通り越して唖然とする。
「オレが海馬家で受けた『教育』については、貴様はすでに聞いているだろう。そのうちの一つだったというだけだ」
「ちょっと、ちょっと待って」
「何だ」
「…ううん、何でもない」
杏子は開きかけた口を閉じて緩く頭を振った。
――セックスドラッグって…それって麻薬とかMDMAみたいなドラッグの、もっとやばいものを飲まされたってことじゃないの?
海馬の義父は兵器産業をビジネスとする、いわゆる死の商人だった。一般に出回っているものでより"質の良いドラッグ"が手に入ったのではと想像してしまう。
尋ねかけた言葉を飲み込んだのは、確認したところで何もならず、言葉にした分苦痛を思い出させるだけと気づいたからだ。
杏子がドラッグの怖さを知ったのはアメリカに来てからだ。
日本でいえばカラオケと同じくらいの気軽さで、こちらではナイトクラブへ遊びに行く。
ダンススクールの友人達に誘われて行った店で、一緒にきていた友人が飲み物に薬を盛られたのだ。
クラブに慣れた地元の友人がすぐに対処して、最悪の事態は何とかまぬがれたが、彼女は意識朦朧で病院に搬送された。
あれは体が火照るとか性欲が強くなるだとか、そんな生易しい代物ではない。レイプに抵抗させないよう無力化させたり、精神をおかしくさせるものだと目の当たりにした。
20歳を超えた大人でさえそうなったのだ。
当時の海馬は14、15歳、もしかしたらもっと幼かったかもしれない。そんな子供が受けた苦しみを思うと言葉にもできない。
本人にとっては既に事実でしかなくなった過去だったとしても。
「その後も機会がなかったわけではないが、そんなことに時間と労力を割くほど暇でもない」
考えがまとまる前に、海馬は話を続ける。杏子も頭を切り替えざるを得なかった。
「じゃあ、なんで…」
「ほんの脅しだったんだがな。承諾したのは貴様だろう。今夜はどうせ他にすることもない――まあ一通りの知識と技術の担保とでも思え」
まるでちょっとしたケガの応急処置でもするような調子で言うので、思わず笑ってしまう。
「真顔でそんなこと言わないで」
身体を折り曲げて笑いを堪えていると、海馬が苛立たしげに肩を掴んだ。
「いつまでそうしているつもりだ」
「っ…!」
噛み付くように鎖骨に立てられた歯が少し痛かった。
その瞬間、我に返ったように、私は何をしてるんだろう。と、冷ややかな疑問が浮かび上がってきた。
気安い間柄ならベッドルームも要求したかもしれない。しかし、さほど親しくない海馬に対してそこまで図々しくはなれなかった。
長身の彼にソファは狭苦しいだろうと、杏子なりに遠慮したこともある。
サブベッドルームがあることなど知る由もない。
普通の男であれば最初から警戒していただろうし、ホテルのバーに誘う意図も見当がついたかもしれない。しかし海馬瀬人という人間に限っては事情が違う。
彼のせいで死にかけたこともあったけれど、決闘者でもない自分は認識されていたかすら怪しかった。
ミッドタウンのビジネス街で再会した時、彼の焦点が自分に合っていたので、妙に浮ついた気分になったのは確かだった。
――でも、どうしてこんなことになっちゃったんだろう。
――別に、どうでもいいか。
再会した瞬間から全て、今でさえまるで現実感がなかった。
――夢を見てると思えばいいんだわ。そうよ、今日のことはみんな夢。あのカンパニーで選考に落ちた時から、全部――
そう思うと、鼻の奥がつんと痛くなった。
ぐすっと鼻を啜る音が聞こえて、海馬は体を起こした。
「…泣くほど嫌なら最初からそう言え」
「ちがうの…ごめん…さっきまで平気だったの、オーディションに、落ちた、落ちたのが急に悔しくなって…ごめんなさい…」
何度涙を拭っても止まらない。抑えられない自分が情けない。そう思うと余計に涙が溢れてくる。
海馬が他人に対して傲慢で残酷であることは確かだ。しかしそれは感受性の貧しさとイコールではない。
むしろ逆である。相手の繊細な感情の動きを、敏感に察知できるからこそ駆け引きに長けるのだ。どれだけ相手にダメージを与えられるかは、相手の大切なものを理解できる度合いに比例する。
DEATH-Tにおいて、遊戯には祖父である双六の身柄を。双六には孫である遊戯の身柄を餌にして彼らおびき出したことと、弟のモクバや青眼の白龍に対する強い思い入れの根源は、実は全く同じなのだ。
情深く相手の気持ちを思いやれるからこそ、残酷にも愛情深くもなれる。
だから正確には杏子が意図的に嘘をついているわけではなく、そう思い込んでいるだけだというのも察しがついた。
細い胴に両手を回して体を抱き起こし、小さな頭を胸に引き寄せた。
「平気だったわけではなかろう。今の今まで麻痺していただけだ」
泣いていいと言われたような気がして、堪えていた涙が堰を切ったように溢れ出した。
抱きしめられた腕の温かさがじわじわと杏子の中にしみ込んで、凍りついていた何かがゆっくりと溶けていくようだった。
"僕たちが求めているダンサーは、君みたいな人じゃないんだよね"
"君は僕のカンパニーには要らない"
努力しても努力しても否定され続け、世界中から不要だと言われている気がしていた。
私は、誰かが目を覚ました瞬間に忘れ去られてしまう夢のようなもので、そのうち輪郭も曖昧になって消えてしまうかもしれない。
そんなことあるはずがないと理性では分かっているのに、そんなことを考えてしまうくらい怖くなることさえあった。
日本にいた頃から、オーディションに落ちることは慣れているはずだった。
同じ夢を目指す多くの人が、同じ経験をしていることも理解している。
自分の努力不足や才能の差ならまだ踏ん切りもつくのだ。体格や骨格、あるいは肌の色による有利不利も最初から覚悟して、アメリカに挑戦しにきた。
しかし、それは表層の表層でしかないと思い知らされた。
留学生としてダンススクールに通っているうちはまだ良かった。カルチャーショックやギャップも、単なる「個性や価値観の違い」で済んだのだ。
しかし、プロとして仕事のオーディションを受け、パイの奪い合いが始まると、その違いがキャリアの差にダイレクトに影響し始めた。
全く異なる出自、価値観も常識も異なる人が評価され、次々とステップアップしていくのを繰り返し目の当たりにすることになった。
杏子は努力家である。自分の弱みに向き合い、克服し、不足を補い、強みを伸ばす。失敗を反省し、新しい価値観を貪欲に学び理解して吸収し、身につけようと努力してきた。今もその姿勢は変わらない。
しかし、彼女が大事にしている他者に対する敬意や礼儀の気持ちを、滑稽なパントマイム程度にしか思わないような人間もいる。今日、カンパニーで笑われたのもそのうちの一つだ。
そういう人はごく少数だと、理性が自分に言い聞かせる。しかし結果が出せないという事実は、杏子がこれまで積み上げてきた信念を揺らがせていた。
NYに来た当初は、童美野町の仲間達と頻繁に取り合っていた近況報告も、最近では自分から連絡することはあまりない。誰からから連絡があっても自分のことはほとんど話さなくなっていた。舞台の選考に落ちた話ばかりになるからだ。
自分のことをよく知っている仲間達には、きっとメッセージだけでも元気を装っているのがバレてしまうだろう。
信頼している仲間達だからこそ、顔を合わせたら弱音を吐かずにいられる自信がなかった。
きっと慰めて、勇気づけてくれる。それが何度も続けば、いつまでも彼らに縋っているようで惨めになるから。
仲間達を心配させたくない優しさと同時に、杏子自身のプライドがそれを拒んだ。
"こんなの大したことない"
"私は大丈夫"
"まだ頑張れる"
繰り返し言い聞かせて気力を振り絞り、不安を振り払い、明るく振る舞い、自分自身さえ騙せていたはずなのに。
この人は自分のことなんてほとんど知らないはずなのに、どうして嘘を暴かれてしまったのだろう。
